『経験・言葉・虚構』(15)

ヨーロッパでブルトンなんかがシュールレアリスム運動をやったときに、
色んな突飛なアイディアを結びつけて、
閃光と言うか、
花火と言うか、
そのようなイメージがひらく、
そうゆう詩の運動を始めたことがありましたけど、
どんなシュールレアリスムの詩を持ってきても、
これを凌ぐことはできないんじゃないか
とゆうふうな気がするんですね。

こうゆうものをつくり出したものは
どうゆうことなんだろうかと思って、
未だに考えてるんですけども、
謎のまま漂っていてわからない。

そうゆうこともあるんだということだけ申し上げておいて‥

普通小説を書きにかかるときによくいわれるのは
視覚型か、
聴覚型か、
つまり目で見るタイプの小説家か、
音で聴くタイプの小説家か、
そうゆう分け方、
分類法があるんですけど、
それに匂い、
香りということも大事だろうと思うんですが、
プルーストのような小説家は香りが非常に重要な役を果たしていますけれども。

『経験・言葉・虚構』(14)

文学が理想とするところは色々あって、
単純さを理想とする、
複雑さを理想とする、
繊細さを理想とする、
剛健さを理想とする、
色々ありますけれども、
おそらく百人の作家がいれば
百の理想があるんだろうと思いますけれども。

もしこの民話をその島の子供が、
子供の時から聞かされて育って、
そうゆう物の考え方、
感じ方というのが、
私には到底掴みようもないんですけど、
それが身についていて、
その民話を、
「太郎ちゃんいい子だからお話聞かせてあげるからねんねするのよ、
 家帰って戸を開けたらこれくらいの虫がいました」
せいぜいついている注釈で、
こんなんでもない、
こんなんでもない、
このくらいだった。
と言ったというんですけどね、
おじいさんが。
これは本望に対する注くらいのところで
あまり意味がない。

それを喜び楽しみ、
それで心が満たされるというんなら、
それでいいんであって、
これはおそらく文学の理想ではあるまいか、
という風に私は考えるんです。
到底私にはそうゆうことは考えようにも考えつきようがない。

『経験・言葉・虚構』(13)

だけど、
【 家帰って戸を開けたらこれくらいの虫がいました 】
とゆうのはこれは何だ、
と僕はいうんですけどね、
空間衝動ではない、
時間衝動ですらない。
未だに僕はこれがわからないんで、
謎のように漂っている。
スフィンクスがその下を通る軍隊‥
じゃない人間に謎を投げかけて困らせた、
という話がありますけども、
そのスフィンクスの謎の一つの
筆頭はこれじゃないかと思いたくなるくらいなんで。

どうすればこうゆう物の感じ方、
考え方というものが出てくるのか、
柳田邦男さんが生きてらっしゃったら、
早速とんでいって尋ねたいところなんですけれども、
それでそのプリンストン及びハーバード兼東大に、
「これはいったいどうゆうこと?」
と聞くんだけど、
彼らは呆然としたまま、
「どうゆうことかわからない、とにかくそうゆうことだ」
と言うんですね。

もし世界民話コンクールというものをやったならば、
ちょうど真ん中へんくらいまできて、
審査員がたるんだ頃にこれをポッと出せば、
一発で一等になれるんじゃないか
とゆうふうに私は思うんですね。

『経験・言葉・虚構』(12)

それでプリンストンとハーバードと東大はひっくり返ってしまってですね、
人類数千年間の言語活動が一挙にひっくり返されたような思いになって、
呆然として奄美大島に帰ってきて、
そこでまたお酒飲んで呆然としている私とあって、
それでこうゆう話を聞いて、
僕も実は近年ああゆうショックを受けたことがないんですけども、
ひどいショックを受けて、
それからその話が忘れられない。

大体どの民族、
古今東西どの民族の民話を読んでもですね、
浦島さんにしてもカチカチ山にしても、
あるいはジャックと豆の木にしたって、
家庭があったり、
少年がいたり、
悪魔が出てきたり、
善と悪がたたかったり、
とかこうゆうことがあって、
現世の現実を、
いくらかバリエーションを、
あるいはおおいにバリエーションをつけて、
それを語る。
とゆうことで意識の空間を埋めていく。
で別の空間を創りだす。
こうゆうのが民話の根本的な衝動だろうと思うんですけど。

『経験・言葉・虚構』(11)

私の友人は十何人か何十人か位の人口しかないその島で、
おじいさんにその島に伝わる昔からの民話を色々聞いてたんですね。
でテープレコーダーに録ったりなんかして、
言語学者ですから色々別の種類の研究、分析をやってたんだと思うんです。

それでもう最後だと思って
今日これでお別れするというんで海岸で別れて、
するとそのおじいさんが別れていったんですが、
汗ダクダクになって帰ってきてですね、
「家帰って戸を開けたらこれくらいの長い虫がいました」
というんですね。

でその言語学者夫婦は、
つまり今おじいさんが家へ帰って戸を開けたら、
南方には木の倒れたあとヤスデという長いムカデの親玉みたいな虫がいますけども、
それが水屋かどっかに入り込んでいたのを、
それを知らせにきたんじゃないかと思って、
「あ、そう」と言ったら、
よくよく聞いてみると違うんですね。
それが民話なんです。
それだけきりの民話なんですね。

【 家帰って戸を開けたらこれくらいの虫がいました 】

たったそれだけきりなんです。

『経験・言葉・虚構』(10)

そうゆう島は珊瑚礁で白くて、
ガジュマルの木が生えていて、
数千年前と同じ波の音、
同じ色で、
スモッグもなければ、
煙突もなければ、
人家もない。

ところがそうゆう珊瑚礁にたった一軒、
ブリキで小屋が建ってるんですね、
そして「サロンパリ」などとかいてある。
まぁここが我が国の我が国たる所以なんですけども。

この南海の「サロンパリ」へ入っていくと
どうゆうことになるかというと、
シャコ貝というシェルの石油のマークになっている貝がありますけれども、
ああゆう貝を肉をとった後、
洗って、
さらして、
これを杯のかわりにする。
黒砂糖からとった焼酎をダブダブダブダブダブ‥と注ぐんですね。
これは底がついてないから、
グゥ〜と安宅の関の弁慶みたいに
全部飲み干してしまわないことには置くことができない。
置くとコロンと転がってしまう。

それでそうゆう焼酎をそのまま出されるまま飲んで、
ばたんきゅうといって客が倒れると、
「これはいい客だ」
といってほめてもらえる。
大体奄美大島でそうゆう習慣ですけども、
そうゆう島になると特にそれが濃厚激烈なんです。

『経験・言葉・虚構』(9)

そうゆう島はどうなってるかといいますと、
行ったことがおありになる方はご存知でしょうけども、
珊瑚礁でできていて、
沖の遠くまで珊瑚がはっているから港が造れないんで、
奄美大島なんかから船が来ると、
カヌーみたいなのを漕ぎ出してきて、
沖で客が大きな船から小さな船へ移る、
そのときに波がこう揺れるんで、
大きな船と小さな船が同じ水準になったときに、
ピョイと飛び移る。

あそこらへんは歓迎の言葉でもなんでも
「ヤイ」というんですけども、
「ヤイヤイヤイヤイ」と夜中闇の中で声が掛かるんで、
どやされたのかと思うんですがこれは歓迎の言葉であって、
歓迎の言葉は島が一つ違うと、
あのへんでは全部違うんです。
喜界島とか永良部島では「ヤイ」かもしれないけども、
奄美大島では「アゲー」というんですね。
皇太子が来ると、
ここに新聞がありますが、
「全島こぞってアゲーの声上がる」
と書いてあるんですけれどもね。

『経験・言葉・虚構』(8)

今日話することも、
今私は小説が終わった後で、
次の小説にかかる前でブランクの段階にあるわけで、
こうゆうことをしゃべるのかもしれないですけれども、
言葉とか虚構とかいうことを考える度に一つのことを思い出すんですね。

どうゆうことかといいますとね、
私は奄美大島へ行ったことがあるんです、
何度も行ってるんですけども、
あの近くには島がいくつもある、
徳之島とか永良部島とかいくつもあるんですけども、
その喜界島だったか沖永良部島だったか、
そこへ私の友達の言語学者が住み着きまして、
テープレコーダーを持って民話を採集にいったんですね。

その奥さんというのがアメリカ人で、
プリンストン大学を出てて、
背は低いけれども、
日本語は私より達者なんですが、
この二人組がその島に乗り込んだわけですね。

『経験・言葉・虚構』(7)

普通恋をしているときには恋愛とは何ぞや
と考える人はいないでしょうけれども、
小説家も小説を書いてる最中とか、
書きたいという欲求がおこってきたときには、
文学とは何ぞやということは考えないんで、
小説家の書く文学論というのは、
政党の公約みたいなところがあり、
どうゆうものか約束したことと必ず反対のことをやっちまうとか。

例えば、
サルトルに文学とは何ぞやと文学論がありますけれども、
これを彼の「自由への道」という小説と比べてみると、
全然チグハグになっている。
矛盾している。
そうゆう箇所がいっぱいある。
それを咎めてもいけないような気がするんですね。

それで自分の中でモチーフが動いていない、
小説を書いていない、
あるいは書けない、
自分が生きた心地がしていないときに、
やっぱり文学とは何ぞやというふうな疑いに取り憑かれて、
書いているのかもしれないんです。

『経験・言葉・虚構』(6)

それから文字というものを夜更けになってじっと眺めていますと、
一切合切が解体していってしまって、
「木」というものを表現するのになぜこの字をつかわなければならないのか、
それがわからなくなってくるんですね。
バラバラになってしまう。

おそらくこの中にもそうゆう経験をしてらっしゃる方が多いんじゃないか
と思うんですけれども、
そのために世の中の一番究極的な約束事を疑ってかかるわけですから、
それから先へは一歩も進めなくなってしまう。
そうゆうことに苦しめられたことがあります。
かなり長い間苦しめられたんです。

『経験・言葉・虚構』(5)

自分が音楽家の才能もないし、
画家になる才能もないということだけぐらいはわかってたんですけれども、
言葉の中にそうゆうものを求めようとして
非常に苦しんだ記憶がある。

「人間一日に一度は自殺を考えないやつは馬鹿である」
というイギリス人の諺があるんですけれども、
馬鹿には違いないけど、
毎日自殺ばかり考えてたんですが、
自殺を考えた動機には様々な動機があるんですけれども、
どうしても言葉というものがつかまえられないし、
純粋というものも手に入らない。
それで七転八倒したことがある。

『経験・言葉・虚構』(4)

私は子供のときに、
14、5歳の頃ですけれども、
戦争が終わって、
野坂昭如が焼け跡、闇市と叫びまくっているあの時代のことなんですが、
食うに困って色んなことをして暮らしてたんですけれども、
めったやたらに本ばっかり読んでいたんです。

パンを焼きながら本を読んで、
リンカーンのまねごとのような生活をしたんですけれども、
リンカーンほど意志が強くなかったから、
パン食ってオーブンにあたるとあたたかくなって、
寝てばっかりだったんですけれども、
そのときも
自分が神経がそよいで、
朝白と考えたことを一時間後には黒と考えてるし、
それからやたらに本を読むんですが、
どれもこれもみんな名作傑作で、
打撃を受けるばかりでどうしようもない。

それから自分がかわりやすくて捉えることができないんですが、
カゲロウみたいなものなんですけれども、
同時に一切の事物がカゲロウみたいに感じられてきて、
絶対にさびない、
指紋がつかない、
純粋で輝いている、
そして動かない、
そうゆう絶対というふうなものはないんだろうか、
という欲求に取り憑かれたことがあるんですね。

『経験・言葉・虚構』(3)

最近おそらく平和が続いているせいではないかと思うことにしているんですけれども、
言語論というのが旺盛活発に、
特にヨーロッパとアメリカで行われていて、
言語とな何ぞや、
ということが研究がされているんですけども、
これが実によくわからないんですね。
色んな説があって、
どれもみなひとつづつ、
少しづつはあたっている。
しかし完璧と思えるものがない。
おそらく今後何十年かかっても完璧というふうなものは
出てこれないんじゃないかと思うんですね。

それはなぜかといいますと、
言語という活動が、
つまり人間の一番根源的な
暗い部分から、
陰の部分から出てくる衝動で、
容易なことでは光を当てることができない
からじゃないかと思うんです。

『経験・言葉・虚構』(2)

色々なことで苦しめられたんですけれども、
一番苦しめられたのは言葉の問題で、
私は
ビアフラ戦争だとか、
ベトナム戦争だとか、
中近東の戦争だとか、
アイヒマン裁判だとか、
そういうどぎついえげつない場所に出没することが多かったので、
ルポルタージュというものを書くときも、
ルポルタージュにも色々なものがありまして、
究極的には言葉で組み立てていく仕事なんですから、
これは厳密な意味でいけば
ノンフィクションといってもフィクションの一種なんである、
というふうに小説家としては考えておかなければならない所なんですが、
人の生死に関わるような問題をルポするときには、
ルポはノンフィクションがフィクションを含んでよい場合もあるけれども、
そういう場合のノンフィクションは
絶対小説的フィクションの要素を排除しなければならない、
という気持ちで書いてきた訳です。

それでフィクションはフィクション、
ノンフィクションはノンフィクションと区別してやってたつもりなんですけれども、
いつの間にか入り交じってしまうんですね。

それでいざ今度フィクションに戻ろうとすると、
フィクションにはやっぱりフィクションの文脈と言いますか、
何かそういう体臭のようなものがあって、
ノンフィクション書くのに慣れた意識で書こうとすると非常に苦しい思いをさせられる。

で随分苦しんで最近やっと一つ書くことができたわけです。

『経験・言葉・虚構』(1)

私が開高です。

この会場で話をするのは四年ぶりになりますか、
「輝ける闇」という小説を書いたときにも出てきたんですが、
それからあっちゃこっちゃまた外国をほっつき歩いて、
やっぱり戦争が多かったんですけれども、
それから書斎に戻って一切合切もう放浪はやめた、
というので小説を書きにかかって、
随分手前味噌になっちゃうんですけれども苦しい思いをさせられたんですが、
歳をとるにしたがって小説は難しくなっていくような気がします。

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森を歩いているとよくわかるんですけれども、
斧が入ったことがない、
人が入ったことがない森、
というのがそこらじゅうにいっぱいある。

それで土が露出していないで、
シダやらなんかに覆われていますが、
草とも苔ともつかないもので森の床全部が覆われている。
それから風倒木が倒れてたおれっぱなしになっている、
これが実は無駄なように見えて実に貴重な資源なのであって、
風倒木がたおれっぱなしになっていると、
そこに苔が生える、
微生物が繁殖する、
バクテリアが繁殖する、
土を豊かにする、
小虫がやってくる。
その小虫を捕まえるためにネズミやなんかがやってくる、
そのネズミを食べるためにまたワシやなんかの鳥もやってくる、
森にお湿りを与える、
乾かない。
そのことが河を豊かにする。
ともう全てがつながりあっている。

だからあの風倒木のことを、
森を看護しているんだ、
看護婦の役割をしているんだ、
というのでナースログ(nurse-log)というんですけれども、
自然に無駄なものは何もない、
というひとつの例なんです。

そうすると人間にとってナースログとは何でしょうか?
無駄なように見えるけれども実は大変に貴重なもの、
というものも人間にはたくさんあるんじゃないか?
それぞれの人にとってのナースログとは何か?

無駄をおそれてはいけないし、
無駄を軽蔑してはいけない。
何が無駄で何が無駄でないかはわからないんだ。

ここがひとつの目の付け所ですね、これは大事なことですよ。
無駄なことしてると思うことはないんであって、
いつかどこかでまた別のかたちで甦っているのかもしれないんだ。

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