『地球を歩く』(10)

ベトナム戦争でもそうだったんですよ、
毎日昼寝の習慣があるんです。
私が行くようになったのは1964年頃からでしたけども、
それから10年間にわたって三回行ってるんですけども、
それで従軍したりしてるんですが、
従軍しててゴム林の中を歩いてて、
昼飯を食う、
食い終わるとみんなそこで倒れて昼寝してしまうんです。
本当に昼寝するんです。
それではじめの頃は何のことやわからないで、
こんなことしてたら、
ここへ迫撃砲が一発落ちてきたらエラいことになる、
と言って騒いでるのは日本人の小説家だけなんですけども。
それでアメリカの士官をつかまえて、
「こ、これ何や?」と言うと、
「いや向こうも寝てるんや、俺も寝るよ、お前も寝たらどうだ」と言う、
それではじめのうちはイライライライラして寝ることも何ともできない、
そのうちにだんだんだんだん図太くなってきてですね、
飯食わぬさきから眠気がこみ上げてくるようなことになってきたんですが、
毎日が夜がなくて、
午後一時から四時まで時間だけしかあの国にはないということになれば、
永遠に戦争はありえない、
と言いたくなるくらいひっそり閑としてるんです。
田舎も街もですね。
犬も歩いていない。
そうゆう戦争なんです。
四時頃になると、
うわーよう寝たな、
ほんならいっちょやるか、
とゆうので戦争をやりだすんで、
付き合いきれないという印象がありましたな、
当時の間は。
だけどもその中へ入ってみるとそれが当たり前なんで、
そうゆう流儀でやってるんだと言うんです。
こうゆうこともなかなかわかりにくいことの一つです。

『地球を歩く』(9)

例えばユダヤ人とアラブ人が揉め事を続けておりますけれども、
このユダヤ人の建てた国はイスラエルですけれども、
ここへ行くと、
金曜日の夕方の一番星の出る時から、
明くる日の土曜日の夕方の一番星が出るまで、
これをシャバットと言いまして、
24時間、
火を使っちゃいけない、
外を出歩いちゃいけない、
働いちゃいかん、
それから火の入った料理を食っちゃいかん、
刃物使っちゃいかん、
あれいかんこれいかんで、
24時間ひたすら家に籠って、
本を読むか、
奥さんと愛し合うか、
冷めた料理を食べながらね。
こうゆうことになってる。

それでナチスの大佐がアルゼンチンで捕まってその後裁判が、
戦争裁判がエルサレムであって、
私はそれを傍聴に行ったんですけど、
毎週これなんです。
それでもうヒタッと猫も一匹も歩いていない。
それで原稿を書いてそれを至急送って、
東京の出版社に送らなきゃいけないんで、
私が原稿を持ってあたふたと駆け出してくるけれども、
空港まで走ってくれるタクシーがない。
散々エルサレム中歩き回ってやっと一台見つけて、
拝み倒して行ってくれと、
で飛び乗ってエルサレムから出ようとすると、
ユダヤ教のおじいさんですなぁ、
ひげを生やした、
これがやって来て、
道ばたの石ころを拾って、
よろよろしてるんです、
何をするんだろうと思ってると、
私の乗ってるタクシーにドカーンとぶつけて、
「シャバットの日にうろうろ出歩いている罰当たりがいる」と言っている。
運ちゃんも悪いということを承知の上だから、
「しょうがないなぁ」と言って、
おじいさんを怒鳴り返すこともなしに、
すごすごとそのまま行くんですけど。
戦争になったらどうするんやと言いたくなるんですけども。
一方イスラエルを攻めるアラブの方はアラブの方で、
毎日お祈りの時間が来るとひたすらお祈りをしてる。
両方ともはじめっからそればっかりやってたらいいじゃないか
と言いたくなるんですけれども。
終わると途端に銃の安全装置を外して、
さぁ戦争しようか、
これなんです。

こうゆうことになると私は本当にわからなくなるんで、
頭の中の地図からまたしてもわからない国が一つ出てきた、
と消していかずにいられないんです。

『地球を歩く』(8)

そうゆう目で見ていくとですね、
日本人に理解出来ない世界地図というものがある
ということに気がつくんですが、
例えばその一つが宗教とゆうやつですね。
我々はご存知のように、
教養や哲学、
趣味としての宗教はあるけれども、
ほんとに信じ込んでの宗教の信心者というものは、
宗教の宗派の如何に関わらずそうたくさんはいないと思うんですけれども。

回教徒の国へ行きますと、
お祈りの時間になると、
空港のオフィスで働いてるのがにわかにこのぐらいの毛布をパッと広げて、
メッカ、メジナの方を向いてお祈りをはじめる。
ちゃんとネクタイ締めたままでですよ。
それが終わると立ち上がって、
「どちらへおいでですか」とか元の事務をやりだす。

これにぶつかると
はたと私は壁にぶつかったような気がして、
ただもう呆然と見てるしかない。
そうゆうことが度重なっていくに従って、
世界地図とゆうものを日本人向きに一遍書き直してみる必要があるのんと違うかと。
宗教ということになると日本人はまず理解出来ない。
日曜に教会へ行くということも、
習慣としては理解出来るけれども、
その心が理解出来ない。
一事が万事そうゆうことになってきてる
とゆう風な目で見ていくと、
我々の素直に入っていって、
そうゆう壁にぶつかったような思いをしないですむ、
地帯、土地というものは、
地球上は非常に少ないということを気付かせられるんです。
ビジネスだとか、
そうゆう女の話なんかをしてるぶんには、
そうゆうことは出てこないんですけれども、
ひとたび話が信仰になるとか、
信仰の時間にくるとか、
信仰の日にあたるとかになると、
バタッとわからなくなる。

『地球を歩く』(7)

ウンチからおしっこから垂れ流しで、
それからこれ大事なことなんです、
誰も研究しようとしない、
家の戸口ばっかり研究してて裏口を研究しないから
こうゆう片手落ちになるんですが、
女官ね「Je t'aime」という女官、
これが香水の匂いを漂わせながらやってらっしゃるのは、
立ったままでのおしっこなんであって、
上体をややかがめる程度、
とゆうのではニュージーランド原始人とあまりかわらない。
でもう中庭がそれらのもういっぱい、
で大革命も終わってベルサイユが廃墟と化して、
それで当時ベルサイユの宮殿で女官生活を送っていた、
もうおばあさんになったのが、
たまたまベルサイユへとことこやってきて、
その匂いを嗅ぐやいなや、
昔は美しかったであろう瞳を潤ませて、
「あぁこれがあの時代の匂いだわ」と言ったという。
あの時代の匂いというのがその匂いなんです。
そうゆうことを何とも思わないで、
それをまたぎまたぎやっておったんであるわけでして、
その気風がいまだに伝わっているから、
セーヌの橋の下はうずまきパンだらけということになるんです。
これホントです。

でこのようなものを文化と、
で文化と文明はどう違うかというと、
色んな理解のしかたがあるんですけれども、
私なりに解釈すれば、
文明というのは電話とかテレビとか原爆とか水道というふうに、
よその文化圏へ容易に伝えることが出来るもの、
これが文明である。
それから文化というのは、
よその文化圏に伝えることが出来ないか、
はなはだ伝えることが難しいいもの、
これが文化。
で垂れ流しと、
要するにキジうちですね釣り師のいう。
自然なるものを愛する、
とだんだん言葉がかわっていきますけれど、
こうゆう習慣は、
ロンドンにもあんまりないし、
ベルリンにはまさにない、
ミュンヘンにもない、
マドリッドの裏町にちょっとありますけれども、
そしてそれをみんなが許し合っている。
酒に対してもフランスははなはだ寛容で、
酔っぱらって自動車を運転しててもお咎めにはならない。
あんまりひどい時にはエラいことになりますけど、
大変寛容なんです。
垂れ流しやら酒に寛容という点では日本とちょっと似たところがある。
こうゆうものはですね、
これからどうゆう時代が来るかは私はわかりませんけれども、
今後もなかなか変わることはあるまいと思うんです。

『地球を歩く』(6)

これがまたニューヨークが、
ティファニーだブロードウェイだというようなことばっかり
みんな言ってますけども、
したたかにウンチとおしっこの匂いがする。
聞いてみるとここ15.6年急速にこうなったんだというんですけれども、
フランスの場合もうちょっと伝統があります。
長い、昔からなんです。
「セーヌの橋の下で」と言いますけれども、
事実セーヌの橋の下でみんな、
「Je t'aime」なんてやってますけれども、
その横はうずまきパンの氾濫なんであって、
いやホント、
これはテレビがいつか報道するんじゃないかと思って私はみてまして、
私はテレビはほとんど見ないんでよくわかりませんけれども、
セーヌの橋の下はうずまきパンだらけやでとゆう、
あるいは柔らかくなったのでカレーライスやで、
とゆう風な風景をドキュメンタリー番組で紹介したことがあるか、
と若者に聞きますが、
知りません、
存じません、
見たことありませんと言うから、
依然としてフォブール・サントノレがどうのこうの、
とゆうようなことばっかりやってるんじゃないかという気がするんです。

これはフランス人の、
強いて言えば長い文化的伝統なんであってね、
「esprit gaulois」という言葉があるんで、
ゴーロワ精神と言うんですが、
これがフランス精神の元祖になってると。
これは自然なるものを愛する、
豪放快活磊落にやれ、
というところがありまして、
飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ大歓迎。
ついでに出す方のあれも大歓迎。
ベルサイユ宮殿時代という時代がありまして、
それからフランス大革命という流血の大時代がそのあとに続くんですけれども、
ベルサイユ宮殿というと近頃なんだか、
「ベルサイユのバラ」とか何とかいうのが氾濫しているとか
ちょっと前まで言われてましたけども、
エラいヒットしてるというので、
私もたまたま出版者に頼んで持ってきてもらってみたら、
要するに宝塚ということなんですけれども。
あんなもんじゃないんであって、
まぁそうゆう面もあったのかもしれませんけれども。
垂れ流しなんですなあれは。
それで水洗便所が発明されてなかったから…

私の話はこうゆうことばっかりじゃありませんけれども、
こうゆう話からはじめたら落ちようがないから、
あとは上がるばっかりだと思っていただきたい。

『地球を歩く』(5)

例えばですね、
パリという街がありますけれども、
香水とファッションと高級文化ということになってるんですけども、
しかし以外に報道されてない面はたくさんありましてね、
私はパリが好きで随分なけなしのお金をはたいたんですけれども、
ヨーロッパの都でですね、
その人口に比べて石鹸の売上が一番悪いのはパリなんです。
というのはつまり不潔だということなんですけども。
これが以外にいつまでたっても報道されないんで、
これはどうゆうことかと思うんです。
私がパリをウロウロしだしたのは、
もう今から20年も昔なんですけども、
依然としてかわってないんです。
それから全ヨーロッパの首府で、
街角で立ち小便をしておる、
あるいは橋の下でウンチをしておる、
堂々と、
憚ることなく、
やる奴をみんなが認めている、
こうゆう癖があるのはパリだけなんです。

ニューヨークもですね、
したたかにおしっこの匂いが立ちこめておりまして、
これがまた行ってみるまでわからなかったんですけれども、
地下鉄を降りるともう、
酸いような甘ったるいようなおしっこの、
出たての匂いも、
三日経ったような匂いも込めてですね、
ムラムラムラッと鼻先へきて、
これはニューヨークのつもりやのに、
パリへ来たんかと思ったくらいですけれども。
どうゆうものか、
食事のせいか何か、
一種独特の甘ったるいような匂いがしますね。
何のせいでしょう、
コカコーラの飲み過ぎやろかと思うんですけども。
あ、これはパリの匂いやと、
同じ匂いです。
東南アジアへ行くとちょっとまたこの系統がかわってきますけどね、
匂いが。
食べ物のせいでしょうね。

『地球を歩く』(4)

それでまぁ私は30代、
現在53歳をもうあと何日かで終わりつつある波間に没する世代なんですけども、
会社行くと窓際ですけれども、
30歳ぐらいからいくらか生活にゆとりができたのと、
それから日本経済が復興してきて、
国庫にいくらかドルが貯まるようになったんで、
外国へも行けるようになって、
それからほっつき歩くようになったんですが。

まぁこのごろよく言われるのは、
「地球は狭くなった」
という言葉なんですけれども、
成田を飛び立ってウトウトしてるうちに、
目が覚めたらニューヨークに着いてたとか、
パリに着いてたとこいうことになるわけですね。
それでおっかなびっくりニューヨークへ入ってく、
パリへ入ってく、
で飲んだり食ったりしているうちに、
フランス人もアメリカ人も同じじゃないかということを発見する。
やっぱりマクドナルドのハンバーグがあったりして、
「人間どこ言っても同じやなー」
とゆう風な感銘を抱いて帰っていく。
それで地球は小さくなった狭くなったと、
コミュニケーションと運搬の手段の発達のおかげで
そうゆうことが言われるようになったんですが、
もう一方よくよく立ち止まって物事を見直してみると、
「ほんまに小さくなったんやろか」
と言いたくなることも多いんですね。

『地球を歩く』(3)

いつか岩波書店の講演で随分前になりますけど、
信州の長野へ行ったことがあるんですが、
先輩の小説家から、
「岩波書店で信州長野へ講演に行ったらエラいことになるから気つけろ」
と言われてたんですけども、
小説家というのは家の中に籠ってばっかりいるから、
何でもいいちょっとでも経験出来ることあるならやった方がいい、
と思って出て行ったら、
前列十列ぐらいですかな、
ノートと万年筆を出してひたとこちらを見つめてる方ばっかりで、
いくら長野県が教育県だからと言ったって、
小説家の話を講演をメモに採られたんじゃもうたまったもんじゃない
と思ったんで、
私がやるのは夏目漱石が和歌山でやったような講演ではないから、
そんなノートやら万年筆をおさめていただきたい、
そうでないと出来ませんからと言って頼んだんですけれども、
いっかな聞くふりもなく、
ただまじまじと勢い凄まじくこちらを見つめてらっしゃるんで、
辟易したことありました。

その逆が我がふるさとの大阪で、
有沢広巳という経済学の先生と一緒に行ったんですけども、
この先生が先に何か経済の話をしたんです、
すると前列三列やっぱり鉛筆と紙を持ってるやつがいるんですけども、
ちょっと長野県とは風体が違うんです。
それで有沢先生が楽屋裏へ引き返してくると、
その前列三列がみな立ち上がって楽屋裏へなだれ込んで、
「今年下半期と来年上半期の景気はどないなりまんねん!」
とゆう風なことを先生に聞いてる、
先生は、
「そんなことがわかるくらいなら経済学なんか勉強せーへんわい」
と言ってごまかしてるんですけれども、
私が出て行くと前列三列空いたっきりで誰も戻ってこない。
両極端なんですけども。

人間は個性があるから、
個性のあるこうゆうはっきりした国は何かあるんやろう
と思うことにしたんですけども、
はなはだ寂しかったですね。
寂しいのやら強迫観念におされるのやらで、
煮られるやら冷まされるやらという思いであります。

『地球を歩く』(2)

それで私は小説を書くことと、
最近魚を釣ることを職業にしてしまったんで、
小説を書くことと魚を釣ることしか出来ない。

で文学の話をしてもいいんですけれども、
これは毎夜毎夜、
机に向かって夜中に一人で酒と妄想とタバコにふけって、
原稿用紙を重ねてそれを明くる日出版社に渡すだけで精一杯で、
もう思い出すだけでもヘトヘトの思いになるので、
とてもこれはしゃべる気になれない。

それから魚釣の方はどうかというと、
これはちょっと経験があるのでしゃべりたいんですけれども、
ロシアに古い諺があって、
「釣りの話をする時は両手を縛っておけ」と、
こうゆう話になるんで、
だからのろけのような話ばっかりになって法螺吹きになる。
小説は、
「嘘を通じて人生の真実を語ることである」と言われてるから、
私は天職として嘘つきである。
第二の職業として法螺吹きである。
嘘のうえに法螺が重なるともうどうしようもないですから、
これは避けなければいけない。
とゆうことになるとだんだん話することがなくなってしまうんですけれども。

『地球を歩く』(1)

最初にお断りしておきますけれども、
私はあんまり話が上手じゃないと自分で思い込んでるんで、
まぁ我々の間には色んな…
業界用語と言うと怒られそうですけども、
小説家同士にしか通じないような通り言葉がいくつかあるんですけれども、
例えば、
「食べ物と女が書けたら一人前だ」とかね、
それから、
「主人公が一人歩きするようになったらその作品は成功だ」とかあるんですが、
そのうちの一つに、
「話が上手になったら小説が下手になるから、講演はほどほどにしとけ」と
テレビなんか出たらあかんとは誰も言いませんけれども、
そうゆうことになってるんで、
そのため、
文学のためにもですね、
本日は私はわざと下手な講演をしなければならない、
という宿命を負わされていることを光栄に思うんでありますが。
退屈してきたらどうぞご自由に立っていって下さい。

『経験・言葉・虚構』(34)

だから清らかな生活が文学を生み出すとは限らないんで、
それで東京へ帰ってきて溝泥のひどい、
そうゆう中で暮らし始めるとやっと字が流れてくるようになってきた。
だから字というのは病の産物なんじゃないかという風な気がする。
かねがねそうは思ってましたけど。
そして病がなければ文学というものも
ひょっとしたら出てこないんじゃないか。
武者小路先生のように人生は楽しくて美しいということを、
十年、二十年平気で淡々とお書きになる、
ああゆうダイアモンドのような人物がたった一人だけ今残ってますけれども、
ああゆう人は大事にしてあげないといけないで、
私は努めて読むようにしてますけども、
アクビしか出ないんで申し訳ないんですけども、
実に羨ましい人なんです。
あの人は病抜きで文学を書いている唯一の人じゃないかと。
何だかの意味で病かキズか
そうゆうものがないことには文学とか文字とかゆうものは生まれてこないんじゃないか、
そこでやっぱりライオンに苦しめぬかれてズタズタになってた
我らの髭だらけの先祖が何とかしてこれを克服しなければ、
というんでそれでライオンという言葉を思いついて彼にあてはめた。
そして意識の空間を埋めて一歩前進した。
そうゆうことをそこでもう一遍再認識するわけです。

えーとぼつぼつ時間が来たようで、
結論が出たのか出ないのか私にはさっぱりわからないんですけれども、
話をしていて結論が出るようだと文学はおしまいだということがあるんで、
このへんで止します。
どうもありがとうございました。



『経験・言葉・虚構』おわり

『経験・言葉・虚構』(33)

三ヶ月間いてて、
ものすごく神経が鋭くなってきて、
ある朝四時頃、
部屋の中に誰かが立ってるとゆうようなショックに襲われて、
心臓がドキドキドキドキしてくるし、
こんなところへ泥棒が来るわけないし、
泥棒がきたって盗っていくものないし、
と私のロゴスとエトスはそう説明するんですけども、
エロスは抜きで、
パトスの方がですね、
誰かがいる、俺を殺そうとしている。
と突飛もないことを考える。
それで全身が凍り付いたみたいになってしまう。
それでよーく目をおし開けるようにして見ていくと、
ズボンがだらしないのが壁にぶら下がっていて、
そこに蝶々が一匹とまっていまして、
羽を開いたり閉じたりしてるんですね。
ただそれだけなんです。
そこまで俺もキレイになったかという感じがした。
でガバッとは跳ね起きないで、
そのまま寝てしまいましたけれども。

それで夜黄昏れにならないと私は机の向かう気力がおこってこないんですが、
黄昏に向かうと字が書けない。
いくら考えても字が書けないし、
書きたいことはたくさんあって、
動いてるということも感じられるんですけども、
一字も出てこない。
それで鳶が魚を取り損ねて、
湖で取り損ねているのをじぃと眺めて、
やっぱりお前にも魚は捕りにくいか、
とゆう風な友情を感じたりするんですが。

『経験・言葉・虚構』(32)

一つだけ経験したことがあってそれを申し上げますとね、
70年に私は小説を書こうと思い立って、
山の中に籠ったことがあって、
新潟の山奥で当時は道路がついてなかったんです。
電灯もきてなかった。
湖のほとりで、
こんな岩魚が、
釣れたらこんな岩魚がいるぐらいの湖なんですが、
そこで籠りましてランプで暮らしてたんですが、
文壇に小説家の数は多いけど、
三ヶ月間ランプで暮らしたのは私ぐらいじゃないかと思ってるんですけども、
そうすると心身頓に壮快を覚えですね、
一切合切空無と化してしまって、
字が書けないんですね。
全然書けない。
それは私がちょうど小説がまだ熟してなかったんだと
後で弁解することにしましたけれども、
あんまり健やかで、
美しくて、
透明でとなってきますと、
何しろこうゆう混濁した水道の水なんか飲まないで、
岩魚の住んでる山の清水を飲んでるわけですが、
水道栓から山椒魚が飛び出してきたりする。
そうゆう山小屋なんです。

それで山小屋のおっさんとルンペンストーブにあたりながらランプの灯の下で、
焼酎を飲んでですね、
「熊はどうして捕るか」とか、
それから、
「狢と狸はどう違うか」とかですね、
「狸をつかまえるにはどう攻めるか、穴はどう掘ったらいいか」とゆう風な話ばっかりして、
毎日毎日そんな話ばっかりしてちっとも飽きない。
これは私が都会生まれの都会育ちのせいもあるんでしょうけども、
いかに日頃混濁してるかということをそれで思い知らされる。
それで僕は女についての法螺を山小屋の人に話するわけです。
そうすると向こうは原始人で私より偉いから、
私が法螺を吹いてるんだと言うことを知った上で、
アハアハと笑ってくれるわけですね。
それで、白い女も、黄色い女も、黒い女もみな同じだぞ、
だから母ちゃんを大事にしろ。
とゆう風な必ず教訓がつくんですけれども。
母ちゃんが横で聞いてるから、
それ以上の逸脱は好ましくないわけですね。
山の中だし。

『経験・言葉・虚構』(31)

私は30歳になった時から放浪とゆうか、
あっちゃこっちゃ飛び歩くことを始めて、
十年間ほっつき歩いたわけです。
日本国内もほっつきましたけども。
それでルポを随分書いて、
まぁ早くいえば浪費をしていたんですけれど、
十年さまよい歩くとかなりのものがたまってくるんで、
それを今後ぼつぼつ瓶詰めに‥瓶詰めっていうのはおかしいな、
文字にかえる努力をして小説を書いていこうかと思うんですが、
何と言いますか、
小説とゆうものも非常に書きにくいもんだということがわかってきて。

私はまぁ自分で言うのは変なんですが、
人生をちょっと焦りすぎて早熟で、
18歳の時に所帯を持ちまして、
20歳で子供を作りましてですね、
今41ですけども子供が二十歳で、
45くらいで私はおじいさんになれるんですが、
65くらいになると曾じいさんになる。
今の子も肉体的には早熟ですから、
私の娘が私と同じようなことをやると‥するとですね、
45のおじいさんというのが発生するんですけれども、
「1ダースくらいつくってやろうか」
なんてことを娘に言われるとゾッとするんですけれども。

私には独身生活というのがなかったんですね。
でその反動がきたんです。
この十年間に。
ものすごい反動、
つぶさには語りませんけれども、
止めても止まらない。
もうしょうがないから反動のままで、
振り子のままで揺れようという決心をしたことがありまして、
揺れるままに揺れてたんですけれども。
家庭で生活出来なくなってしまったんですね。
それで去年も半年ぐらい家を外にして、
あっちの旅館こっちのクラブと泊まり歩いて、
今年もそれなんです。
で独身生活というのはこんなに楽しいもんかというのがやっとわかったんですね。
それで出版社の人がやって来まして、
「第二の青春ですな」なんてなこと言うから、
「冗談じゃないよ俺はこれが第一の青春なんで40になって第一の青春やってるんですよ」
と言うんですが、みんな
「ハッハッハ、御身大切に」なんてなことを言うんですけども。
世間の若者が侘しいような顔をして、
駅前の「キクヤ」とゆう風な食堂で飯を食ってるんですが、
鯵のフライにお新香に冷えたご飯食べてもう本当に辛そうな侘しい顔をしてるんですが、
私一人は生き生きしている。
何でこうゆうことを知らなかったんでろうかとゆうことでですね、
生きていてよかったという感じになってるんですけれども。

『経験・言葉・虚構』(30)

だからいささか突飛な皮肉な表現をしますと、
数千年かかって、
二千年か三千年か正確にわかりませんけれども、
ものすごい言葉をつくり、
ものすごい知識を生み出して、
エンサイクロペディア、
ブリタニカこんだけありますけども、
ちゃちなアパートなら床が抜けてしまうぐらいなんで、
それだけのものを全然自由自在にこなすことが出来ないで
苦しんでるわけですけれども。

だからある意味ではですね、
突飛な言い方ですけども、
世界を征服するのは、
原子爆弾を持っている最も言葉数の少ない国民、
これが世界を征服できるんじゃないかと思うんです。
ただこれには矛盾がある。
原子爆弾、
それは最終武器という意味ですけど、
最終武器は破裂させる、
つかうことが出来ないんですから、
言葉数を少なくすることは政治でいくらでも出来ますけれども、
一国内にそれがとどまって、
世界を征服する国民は今後出てこないんじゃないか、
とゆうふうに私は考えるんですけども。
だから今矛盾したことを言ったわけです。
絶望の文学という言葉が矛盾だと言いましたけれども、
それと同じくらいに矛盾した言葉を今言ったわけです。

『経験・言葉・虚構』(29)

それから徹底的に絵描きはルネッサンス以来人間を裸にして、
女、または女性、または女の人を裸にして描いてきたけれども、
一カ所描いてないところがある。
「日々素晴しく深い恩恵にあずかっていながら、
 女体の一カ所を絶対絵にして描いたことのない部分がある」と私が言うと、
その絵描きは、
「あれだ」と言ってすぐに一言で言い当てましたけれども、
「あれは絵にならんのだ」とこう言うんですね。
皆さんが想像してらっしゃる部分じゃないですよ。
その背景にある部分ですけども。
それを絵にした人はいないんです。
ハンス・ベルメールってゆうのが一人いたということを最近になって発見して、
もうちょっと勉強しなきゃいけないと思わせられましたけども、
これは芸術になってましたね。
長い間あれは見捨てられたままになってたんです。
今後出てくるんじゃないかと私は思うんですけどね。
あれを美しく表現することは出来るはずなんです。
そうゆう話をしてる方がいいんで、
絶対とゆうふうなことを言い出すともうダメなんで、
あるいはダメになってるからそうゆうことを言い出すんだとゆうことになるんで、
これは避けた方がいいわけですね。

そうゆうわけで、
音楽の世界、絵の世界は私の専門外とゆうことにしておいて、
まだ絶対音、絶対色の境地というものはあり得るんじゃないか
という夢想の段階にとどめておきますけれども、
小説、こと小説の世界に関する限り、
絶望の文学というものはあり得ない。
前向きになってるか、
後ろ向きになってるかだけの話で、
人間にくっつこうとしている。
人間から離れたいということばっかり書いている小説がありますけれども、
離れたいという衝動で人間にくっついている。
だから彼は人間主義者なんで悪魔になりえない。
全ての作家はものを書いている限り悪魔じゃないんですね。
なれない。
沈黙し始めたら考えなきゃいけませんけれども。
その沈黙が意識して、
徹底的に俺はもう人間を見捨てるんだ、
と意識してやってる沈黙か、
ただ書けなくなって才能が枯渇しての沈黙なのか、
にわかに判断しにくいところですけれども、
沈黙以上の悪はないんです。
無関心以上の悪はない。
とゆうふうに私は思うんです。
だけど社会生活の面からみていくと、
無関心と沈黙の領域というものは、
二十世紀になってどんどん広がる一方なんですね。
これをどうしていいのか、
言葉が増えるのをどうしておさえていいのか、
と同じくらいに大問題。

『経験・言葉・虚構』(28)

昔子供の時に私は、
自分が言葉であまり苦しめられて振り回されるもんですから、
文字とか言葉とかこうゆうカゲロウのようなものではなくって、
音とか色とかゆう風なものには、
絶対音、絶対色とゆう風なものがあるのではなかろうか、
とゆう風な気がしたことがあったんですね。
で極時たまで、
なかなか説明しにくいし捉えにくいんで、
具体例を挙げることが今出来ないんですけれども、
音楽を聴いていると時々ひどい悪魔を感じる時がある。
チラッと悪魔の顔が見えるんですね。
なにか絶対音と言ってもいいようなもの、
音をつくり出してる場合があるような気がする。

音とか色とかいう風なものにはひょっとしたら、
意味のグニャグニャした、
どのようにでもかわりうる意味の世界を拒否したところにある純潔な不毛の、
徹底的に絶対的な境地をつくり出すことが出来るんじゃないか、
ということを子供の時に考えたことがあるんですが、
それで絵描きになりたい、
とか音楽家になりたいという風に思ったんですけれども、
その後小説家になってから
色々な音楽家だとか、
色々な画家と接触して色々話をしてみるとですね、
どうも彼らもやっぱり同じようなことを考えているらしくて、
その絶対音、絶対色という風なものはありえない。
あらせようと思って必死になってやるんだけれども、
そうゆうものは生まれえないんじゃないかと、
そうゆうものを求めようとして別種のものをつくり出す、
それが素晴しいものになるということがあるんだけれども、
絶対音、絶対色というものはあり得ない。

やっぱり人間の世界に、
愛してるか絶望しているかは別として、
憎むか愛するかは別として、
人間の世界に戻って行くより他ない活動なんじゃないか、
という意見を述べる人が多いんですね。
名前を挙げませんけども、
かなり有名な大家、
あるいは大家になるべく予想されるような中堅、
そういった人たちがそうゆうことを言うんですね。
それから同じようなことを言う。
「そうゆうことをしゃべり出したり考え出したりするようになると絵が描けなくなる」
と言うんですね。
「絵が今描けないからあなたそうゆうこと私と話してるんじゃないんですか」と言うと、
「その通りだ」と言うんです。
「それじゃあ小説家と同じだ」と言って、
「じゃあもうこんな話はやめよう、女の目の話をしよう」
今言ったのは嘘で、
「女の話をしよう」と言ったんですけども、
酒飲んで女の話をする。

『経験・言葉・虚構』(27)

だからよく「絶望の暗黒文学」とゆう風な広告文句が出ますけれども、
文学には絶望ということはありえない。
ドストエフスキーがどんなに人間の暗黒面を描き出して絶望を書いていても、
セリーヌがどんなにものすごい絶望を書いても、
あるいは三島由紀夫が徹底的に不毛な世界を書いていても、
字でものを書いている限り、
彼はヒューマニストなんですね。
ここでゆうヒューマニストというのは人間主義者という意味で、
人間を愛してるという意味ではないんです。
人間を憎んだって構わない。
憎むということも愛の一種の変形だ
と学校の先生か牧師さんならすぐ言いくるめてしまいますけれども、
そこまで私は図太くないんで、
そうゆうこと出来ませんけれども、
愛そうが、
憎もうが、
絶望しようが、
何しようが、
字を書いている限り、
あるいは字を書こう、
何かを書こうとする衝動がある限り、
彼は人間主義者なんです。

日本語のヒューマニストという言葉は誤ってつかわれすぎてるんで、
ヒューマニストというとすぐに、
心の温かい人かということになりますけれども、
これは間違ってる。
心の冷たい人もヒューマニストになりうるわけです。
ヒューマニストという定義によればね。
人間に関心を持っている人、
持たざるをえない人、
これがヒューマニストなんですね。

この人は不毛の純潔にあこがれることが出来ない。
あこがれてもそれはその人のセンチメンタリズムか夢にすぎない。
ということを悟るべきなんですけども。
とはいっても時々そうゆう流氷のような、
徹底的に素晴しいものを見ると、
体が割かれるような気がするんですけれども。

ですからいかに絶望が語られていても、
それは字で、
文字で綴られている限り、
意味の世界と人間の世界に住んでいるんであって、
絶望という背を裏返して人間にくっつこうとしている。
そうゆう態度なのであって、
悪魔にはなりえない。
全ての作家は悪魔になれない。
悪魔というのは流氷みたいなのをつくり出す奴のことを悪魔というんですね。
私の定義に従えば。

『経験・言葉・虚構』(26)

明くる日になると、
嵐の明くる日なもんですから、
すばらしい透明な朝がやってきまして、
それで海全体が、
メキシコ産のオパールで「白」「青」「金」の輝いているオパールがある。
「赤」「金」の輝いているオパールと、
二種類オパールがありますけれども、
「白」「青」「金」の輝くオパールみたいに、
海面全体がそのオパールのような輝きになってしまうんですね。
なぜそんなになるかといいますと、
流氷原と言うのはでこぼこなんですね。
厚いところもあれば薄いところもある。
で喧嘩した後ですから海は、
流氷はもうギザギザになっている。
それに日光が当たって乱反射してくるもんですから、
すばらしく美しい。

徹底的に不毛で、
徹底的に純粋なんですね。

それを見ているうちに、
昔自分が求めていたのはこうゆう風なことなんではないかしら
とゆうふうなことを思い出したりして、
危険を覚える。
吸い込まれるような感じになってきて、
こうゆうものをながく見続けていると、
また人間の世界に戻るのにえらい苦しまなきゃいけない。
俺は自殺することが出来ないんだということを子供の頃に悟ったはずだから、
こうゆうものをあんまり見ちゃいけないんだと。
それで汚濁にまみれ苦い恋ばっかりしていてもしょうがない、
人間の世界に戻るより他ないんだと思って戻ってきたんですけれども、
にもかかわらず、
私は人間嫌いの衝動が濃厚にあるんですが、
小説を書いている。
字を書いている。
小説であろうが、
エッセイであろうが、
論文であろうが、
ノンフィクションであろうが、
ルポ、
何でもかまいませんが、
文字を書いているということは、
これは人間の世界に住んでいるということで、
人間に関心があるということなんですね。
関心がなければ、
本当の絶望者というのは何も書かないはずなんです。

『経験・言葉・虚構』(25)

こないだ北海道へ行きまして、
2月の末ですけども、
知床半島へ行って羅臼という町がありますけれども、
流氷を見たくていったんですけども、
北海道は何遍となく行ってるんですが、
流氷を見るのは私初めてなんですが、
これがこの海を埋めてるんですね。

それであそこの流氷は氷原になって、
氷の原になって、
沖の彼方まで広がっていて、
国後島まで歩いて行けるんじゃないかという感じがする。
だけども四畳半一つぐらいの部屋、
あるいはちょっとした掘建て小屋くらいもある大きなのがですね、
一個づつバラバラなんですってねあれは。
それで塊と塊の間に海の水が入ってるんで、
それが潤滑油の役をするんで、
その海水が凍らない限り、
氷の塊はひっつくことがないというんです。

そのうちに猛吹雪になってきまして、
二日か三日ほどその羅臼の町に閉じ込められて動けなくなったんですが、
海が流氷をのせたままうねるんですね。
そうすると突堤よりも海面が高くなって、
今にもこっちにおしかけてくる。
流氷と流氷が喧嘩を始める。
そうすると下からこう迫り上げられてきてはみ出した流氷はどうなるかというと、
突堤の上へ這い上がってくるんですね。
這い上がってきてそこへドタッと挫折して、
「孤独だ」と叫んで居座ってしまうのもいるし、
「なにを!」といってこっち港へドドドーンっとなだれ込んでくるのもいる。
その流氷の戦争を見ている。

『経験・言葉・虚構』(24)

そうゆうわけで、
これは原始人がですねライオンの身振りをして踊りをする、
その時彼は自分に、
ライオンの鋭い牙、逞しい腕、速い脚、強力なジャンプ力、
といったものが身に付いたかのように感じて踊るわけですね。
あれは何のために踊るかとゆう説、
これまた無数にある、
解釈があるんですけど、
そんな踊りをしたところで自分がライオンになったのではない
ということはライオンと毎日暮らしている我らの先祖は
ことごとく知っていたわけです。
知った上であの嘘の踊りをやっているわけです。
そしてそのことに高揚していたわけですね。

それで今の小説家は嘘がつけなくなっていると言う衰弱した状態に落ち込んで、
これが大変困ったことなんですけれども、
文字を書こうという努力、
あるいは言葉を発明しようとする努力で小説を書いていく、
そして自分の中にある何事かを克服する衝動から書き出す。
小説家だけでなしに
人間がみんな自発的に字を書くとき、
つまり帳簿をつけてるんではなくて、
一人になったときに日記をつけるなり、
あるいは恋文‥恋文は古いなぁ、
ラブレターは品が悪いし、
そうゆう恋の手紙を書くときでも、
あるいはお別れの手紙を書くときでも何でもいいですが、
自発的に何か文章を書いているとき、
そのうしろにあるものは、
今私が説明したようなことではないかしらと思うんです。
つまり文学の始まりなんですね。
それが文学になるかならないかという分かれ道はまた無数にありますけれども。

そうゆうわけですから、
言葉というものは人間につながるものなんですね。
文字というものも人間につながるもので、
人間から離れることが出来ない。
私が少年時代に憧れたような純粋さというものは、
人間の世界にはあり得ない純粋さなんで、
これは不毛の純粋さなんですが、
これが不毛だということに気がついたのはずっと後になってからの話で、
近頃でもまだ時々
その不毛の純粋を求める衝動に襲われることがあるんですけれども。

『経験・言葉・虚構』(23)

手垢にまみれた言葉という表現がよくありますけれども、
手垢にまみれた言葉でつかってはいけないんで、
ページを開いたときに、
活字の字母を新しい鋳造機で、
つくったばっかりの活字で組んで、
ページをつくったという感じのするような、
そうゆう明晰な、
澄明な感覚が私は好きなんですけれども、
それには手垢にまみれた言葉というものをつかってはいけない。
それから使い古された言葉もつかってはいけない。
といってしかし、
普遍性のある言葉も選び出さなければならない。
色々苦しんで、
お酒を少し、
水を少し、
お酒を少し、
水を少し、
と毎晩考えるわけですね。

お酒を飲み過ぎるといい言葉はどんどんどんどん出てくるけれど、
自分は天才じゃないかと
いまだにこの歳になってもうぬぼれたくなる一瞬があるんですが、
明くる日になって読み返してみると、
バカバカしくなって紙くずかごへ捨ててしまう。
といって真剣の素面でやっていると、
つらいばかりで、
彼女の目だけが漂って私を苦しめるんで、
ものが書けない。
書けなければ書けないでいいんですが、
書きたい衝動があるときに書けないというのはつらい。
それで酒に力をかりる。
かりすぎてはいけない。
それで水を差すわけですね。
生湿りのマッチみたいな状態で小説を書いていくんですけれども、
これは難しいんですよ、
これを持続させなければならないんですが、
なかなかこうゆう幸福な時間は続かないんです。

『経験・言葉・虚構』(22)

そこでまたもう一度私が錯覚、
誤解した優しい女の目に戻りますけれども、
で今ライオンはいないので、
私の身のまわりに女の目だけが漂っている、
それでこの目の呪縛から逃げたい、
夜の湖のようなといいましたけれども、
私がその彼女の目、
暗がりで輝いていた目を、
夜の湖のようなという言葉に置き換えることで満足が出来たならば、
もうそれでいいんですけれども、
いや夜の湖のようだというよりはむしろ、
木陰でうずくまっている猫の眼のようだった、
どうもこれでもないらしい。
というので色々考えていくわけですね。
ここから小説の第一歩が始まる、
というか文章の第一歩がここから始まってくる。

稗田阿礼っていうのはそうゆう細かいところを考えなくて、
もっとおおらかな時代に生きてましたから、
ぼきぼきと
あっちでこうゆうことがあった、
こっちでこうゆうことがあったとゆうようなことばっかりを
綴っていったんですけれど、
根本的な衝動ではかわってないだろうと思うんです。

それでその女友達の暗がりで輝いていた目を克服するために、
無数の言葉を使うんですが、
このときにおこることは今度は何かというとですね、
逆の現象が起こってくるんですね。
特に現代では。
逆の現象が起こらなければならないんです。
つまり無数の言葉があるのに、
現実がその言葉から全然感じられない時代にきていると、
それで女友達の目を見てすぐに夜の湖、
あるいは木陰の猫の眼、
という言葉を考えだしたけれども、
それでも彼女の目がつきまとってきて離れない。
その混沌に対して秩序を与えなければならない。
というので私は言葉をつくっていくんですが、
そのときは私がつくったのではない、
人類が数千年かかってつくってきた言葉の中から
いくつかを選び出してきて、
自分なりに配置してつくり出すわけですが、
これは今度はどうゆうことかといいますと、
ライオンという言葉を拒んで、
ライオンというものを直視しようとする態度ではないかと、
ライオンやら女やら何やら
だんだんややこしくなってきましたけれども、
聡明な皆さんはすでに本質を掴んでいらっしゃると思うんですけれども。

『経験・言葉・虚構』(21)

それでそれほど苦しんで現実に対応したんですが、
今はそんなに現実に苦しまなくて
次から次へと無数の言葉をつくってきて、
次から次へと発生していく、
あるいは自分が生み出していく現象及び現実に対して
言葉をあてはめていくわけです。
それで今度はどうゆうことになるかというと、
言葉自体が自己展開、
自己増殖を始めて、
現実がないのに、
言葉そのものが現実になってしまうような世界がきてる。
それすらも過飽和になってしまって、
今どうしていいのかわからないという状態があると思うんです。

それでしかし依然としてやっぱり
石器時代に我々を襲った恐怖というか混沌とゆうものは
我々の内部に依然として潜んでいて、
これが人間の影の部分として我々の言動を支配しているんじゃないか
と思われることがしばしばあるわけです。
それが証拠に、
名状に苦しむという言葉がいっぱいありますからね。
名状に苦しむことはいっぱいあるわけです。
それは依然として続いているわけです。
人間の本質はあまりかわっていない。
ただ無数の言葉が出来ちゃって、
その遺産のために背骨が今折れそうになっているというのが
我々の偽らざる所ではないかと、
特に都会ではそうじゃないかという気がするんです。

『経験・言葉・虚構』(20)

それで人類は意識の内と外にある
自分の心と体の内と外にある世界を克服すると称して、
そうしなければ生きてこれなかったから、
それで無数の言葉を編み出してきたわけですね。
それで現実を覆ってきたわけです。
それで克服し、
今度は克服しすぎて、
現代にいたっては言葉の数が多くなりすぎて、
その数の大きさ、広さ、重さ、複雑さのために、
人類はかえってよろめいてですね、
本体を掴むことが今出来なくなってきている。

つまり石器時代にはライオンという言葉がなくて、
我々の髭もじゃの先祖が苦しみ抜いたんですけれども、
そして最初に誰がこのライオンという言葉を発明したのかわかりませんが、
ものすごい男だったと思うんですね。

それからライオンは一例のすぎませんけれども、
もっと恐ろしいこと、
強大な、強烈なことを発明した男は、
「夜」という言葉と、
「ひ」?という言葉を発明した男ね、
これが人類の最大の脅威だったと思うんですけど、
少なくとも夜の一部分、
あるいは夜の本質の一部分を、
夜という言葉をつくることで我々の中へ獲得してしまった。
それで夜に立ち向かう力を与えてくれた。
その力が幻覚であったか、
リアリズムであったかということは、
今はもう議論できない。
いずれにしてもそうゆうことをした。
だから「夜」という言葉と「ひ」?という言葉を発明した男は、
たいへんな男だったと思うんです。
おそらく一人ではなくて、
何千年とかかって苦しみ抜いてつくったんだろうと思うんです。

『経験・言葉・虚構』(19)

そうするとこれを克服するために何故文字を選ぶか、
ということが問題になってくる。
今までのが例え話で、
これからが現理論になるわけですけども、
色んな解釈のしかたがあるんですけれども、
そしてどの解釈も先に申し上げたように
少しづつ真実であるが、
その全部を合わせても、
言語とゆうものの衝動を解説することはできないんですが、
私がよく考えるのは、
好きな考え方というのは、
こうゆう考え方なんで‥

例えば言語とか文字とかゆうものが出来なかった、
出来ていなかった昔、時代があって、
その時ライオンという文字は出来ていなかったし、
ライオンという言葉も出来ていなかったわけですね。
するとライオンとは何かといいますと、
強いて解説すると、
強力な脚をもち、
鋭い爪をもち、
ものすごい牙をもっている、
混沌とした恐怖のかたまり。
速くて、痛くて、鋭い、恐ろしい混沌のかたまりなんですね。
ライオンじゃなかったわけです。

ところが一度これにライオンという言葉をつくって
あてはめてしまいますと、
ライオンはどうなるかというと、
人間の意識の中でかわってしまう。
やっぱり依然として、
鋭くて、速くて、恐ろしい牙をもっているけれども、
ただの四つ足の獣にかわってしまうわけですね。
ここで克服できたわけです。

これが文学の始まりなんです。
と私は考えるんですけども、
そうゆう考え方の方が私は好きなんですね。

『経験・言葉・虚構』(18)

それで日が過ぎていくんですけれども、
そうするとその時‥
これ全部例えの話ですよ、
色んなコンペンセイションというか、
補償作用をやって弁解したり、
恭順したり、
「なんだあんなつまらない女」と時にはいってみたり、
「いやそうでもない」と思い返してみたり、
とゆうふうなことをやりますけれども、
これは後から出てくるもので、
最初につきまとって離れない、
それから私の薄暗い意識の中で
浮き沈み、
明滅するのは、
ロウソクの光の中で夜の湖のように輝いていた、
その女友達の目であると。
その目がつきまとって離れない。
つきまとって離れないものは私にはいっぱいありますけれども、
例えばそうゆう目がある。

そうするとこの目をなんとかして克服しなければいけない
ということになってきて、
もちろん色々今さっきいたような
弁解、強弁、
あるいは次の戦術戦略、
色んなことを考えますけれども、
あるいは心理分析ということも考えるんですけども。
最初にくるのはイメージなんですね。
このイメージが意味するものは言葉にかえられない、
それを必死になって言葉にかえようとする。
言葉または文字にかえようとする。
なぜか?
その呪縛から、
束縛から逃げたいからなんで、
それはたとえば彼女が私を見ていたとしても、
もしその目が夜の湖のように輝いていて、
私につきまとって離れていなかったらですね、
私は恋を得たうえに、
またその宝石のような目まで得たんですから、
果報者とゆうことになるんですけれども。

そのときでもやっぱりその目は
私につきまとって離れないんじゃないかと思うんですけどね。
いずれにしても私は敏感なんですから。

『経験・言葉・虚構』(17)

それで私は非常に苦いキズをうける、
キズをうけると人間はそれを克服しなければならないんで、
勝手な理屈を色々考えだすんです。
しかしどおしても私の勘に過ちはないと私は思う、
ここが出発点で、
彼女は私を見ていなかった、
関心が私になかった。

恋というものは最初の一瞥で
大体のところの本質は決まるような気がするんで、
何度もそれ以前に食事をしていて
わかっていなければいけないのに、
未練があって、
あるいはこちらに過剰なものがあったために、
最初の知性的な認識を踏み外してしまって、
どうも私のうぬぼれか間違っていたと。

それから彼女は私を見ていなかったけれど、
そうするとあれはいったい何を見ていたんだろうとか、
しかし恋は押しの一手ということあるから、
知らぬふりしてもう一度再三攻撃やるか、
203高地という例もある、
などと考えたりもするし、
いや年甲斐もないとささやく声にも耳を傾けたり、
とつおいつ迷う。

『経験・言葉・虚構』(16)

例えば、
という話をすると、
去年までは私はすぐに、
インドシナの田んぼで倒れている
殺された農民の目の上にハエが這っていまして‥
という話をすぐ引っ張ってきていたんですけども、
もう戦争の話はつくづく嫌になったので、
今日はそうゆう例えをもってこないで、
もっとやさしいとこから引用したいと思うんですけど。

経験というのにも色々ありますけれども、
例えば私がある女友達と、
例えばの話ですよ、
レストランへ行ったとします。
それでロウソクの、
キャンドルライトで食事をしたとしますね。
キャンドルライトでなくても、
キャンドルライトに等しいような薄暗い中で食事をしたとする。
薄暗い中で光っている、
こちらが大いに関心を寄せている女性の目というのは、
これ以上の宝石はないと私は思っているんですけども。

それでその目ばっかり見つめて
私は食事をし、
お酒を飲み、
楽しんで、
いい気持ちになって、
外へ出て別れる。
別れてから一町ほど行ってから、
愕然とあることに気がつく。
つまり私はその女性の、
女友達の目ばっかり見てたんでけれども、
よくよく考えてみると、
その女友達の目は、
私と女友達の間にある中間のどこか一点か、
もしくは私の後ろ辺りを見ていたんであって、
私を見ていたんではなかった。
ということに気がつく。

例えば、ですよ。
こうゆうのをフランス語で、
アムール アメール(Amour Amer)苦い恋というんですけど。