1972/07/04 言葉の本質について語った講演『経験・言葉・虚構』
私が開高です。
この会場で話をするのは四年ぶりになりますか、
「輝ける闇」という小説を書いたときにも出てきたんですが、
それからあっちゃこっちゃまた外国をほっつき歩いて、
やっぱり戦争が多かったんですけれども、
それから書斎に戻って一切合切もう放浪はやめた、というので小説を書きにかかって、
随分手前味噌になっちゃうんですけれども苦しい思いをさせられたんですが、
歳をとるにしたがって小説は難しくなっていくような気がします。
色々なことで苦しめられたんですけれども、
一番苦しめられたのは言葉の問題で、
私はビアフラ戦争だとか、ベトナム戦争だとか、中近東の戦争だとか、アイヒマン裁判だとか、
そういうどぎついえげつない場所に出没することが多かったので、
ルポルタージュというものを書くときも、
ルポルタージュにも色々なものがありまして、
究極的には言葉で組み立てていく仕事なんですから、
これは厳密な意味でいけば、ノンフィクションといってもフィクションの一種なんである、
というふうに小説家としては考えておかなければならない所なんですが、
人の生死に関わるような問題をルポするときには、
ルポはノンフィクションがフィクションを含んでよい場合もあるけれども、
そういう場合のノンフィクションは絶対小説的フィクションの要素を排除しなければならない、
という気持ちで書いてきた訳です。
それでフィクションはフィクション、
ノンフィクションはノンフィクションと区別してやってたつもりなんですけれども、
いつの間にか入り交じってしまうんですね。
それでいざ今度フィクションに戻ろうとすると、
フィクションにはやっぱりフィクションの文脈と言いますか、何かそういう体臭のようなものがあって、
ノンフィクション書くのに慣れた意識で書こうとすると非常に苦しい思いをさせられる。
で随分苦しんで最近やっと一つ書くことができたわけです。
最近おそらく平和が続いているせいではないかと思うことにしているんですけれども、
言語論というのが旺盛活発に、特にヨーロッパとアメリカで行われていて、
言語とな何ぞや、ということが研究がされているんですけども、これが実によくわからないんですね。
色んな説があって、どれもみなひとつづつ、少しづつはあたっている。
しかし完璧と思えるものがない。
おそらく今後何十年かかっても完璧というふうなものは出てこれないんじゃないかと思うんですね。
それはなぜかといいますと、
言語という活動が、つまり人間の一番根源的な暗い部分から、陰の部分から出てくる衝動で、
容易なことでは光を当てることができないからじゃないかと思うんです。
私は子供のときに、14、5歳の頃ですけれども、
戦争が終わって、野坂昭如が焼け跡、闇市と叫びまくっているあの時代のことなんですが、
食うに困って色んなことをして暮らしてたんですけれども、
めったやたらに本ばっかり読んでいたんです。
パンを焼きながら本を読んで、リンカーンのまねごとのような生活をしたんですけれども、
リンカーンほど意志が強くなかったから、
パン食ってオーブンにあたるとあたたかくなって、寝てばっかりだったんですけれども、
そのときも自分が神経がそよいで、朝白と考えたことを一時間後には黒と考えてるし、
それからやたらに本を読むんですが、どれもこれもみんな名作傑作で、
打撃を受けるばかりでどうしようもない。
それから自分がかわりやすくて捉えることができないんですが、
カゲロウみたいなものなんですけれども、
同時に一切の事物がカゲロウみたいに感じられてきて、
絶対にさびない、指紋がつかない、純粋で輝いている、そして動かない、
そうゆう絶対というふうなものはないんだろうか、
という欲求に取り憑かれたことがあるんですね。
自分が音楽家の才能もないし、
画家になる才能もないということだけぐらいはわかってたんですけれども、
言葉の中にそうゆうものを求めようとして
非常に苦しんだ記憶がある。
「人間一日に一度は自殺を考えないやつは馬鹿である」
というイギリス人の諺があるんですけれども、
馬鹿には違いないけど、毎日自殺ばかり考えてたんですが、
自殺を考えた動機には様々な動機があるんですけれども、
どうしても言葉というものがつかまえられないし、
純粋というものも手に入らない。
それで七転八倒したことがある。
それから文字というものを夜更けになってじっと眺めていますと、
一切合切が解体していってしまって、
「木」というものを表現するのになぜこの字をつかわなければならないのか、
それがわからなくなってくるんですね。
バラバラになってしまう。
おそらくこの中にもそうゆう経験をしてらっしゃる方が多いんじゃないかと思うんですけれども、
そのために世の中の一番究極的な約束事を疑ってかかるわけですから、
それから先へは一歩も進めなくなってしまう。
そうゆうことに苦しめられたことがあります。
かなり長い間苦しめられたんです。
普通恋をしているときには恋愛とは何ぞやと考える人はいないでしょうけれども、
小説家も小説を書いてる最中とか、書きたいという欲求がおこってきたときには、
文学とは何ぞやということは考えないんで、
小説家の書く文学論というのは、政党の公約みたいなところがあり、
どうゆうものか約束したことと必ず反対のことをやっちまうとか。
例えば、サルトルに文学とは何ぞやと文学論がありますけれども、
これを彼の「自由への道」という小説と比べてみると、全然チグハグになっている。
矛盾している。
そうゆう箇所がいっぱいある。
それを咎めてもいけないような気がするんですね。
それで自分の中でモチーフが動いていない、
小説を書いていない、あるいは書けない、自分が生きた心地がしていないときに、
やっぱり文学とは何ぞやというふうな疑いに取り憑かれて、書いているのかもしれないんです。
今日話することも、今私は小説が終わった後で、
次の小説にかかる前でブランクの段階にあるわけで、
こうゆうことをしゃべるのかもしれないですけれども、
言葉とか虚構とかいうことを考える度に一つのことを思い出すんですね。
どうゆうことかといいますとね、
私は奄美大島へ行ったことがあるんです、何度も行ってるんですけども、
あの近くには島がいくつもある、徳之島とか永良部島とかいくつもあるんですけども、
その喜界島だったか沖永良部島だったか、
そこへ私の友達の言語学者が住み着きまして、テープレコーダーを持って民話を採集にいったんですね。
その奥さんというのがアメリカ人で、プリンストン大学を出てて、
背は低いけれども、日本語は私より達者なんですが、この二人組がその島に乗り込んだわけですね。
そうゆう島はどうなってるかといいますと、
行ったことがおありになる方はご存知でしょうけども、
珊瑚礁でできていて、沖の遠くまで珊瑚がはっているから港が造れないんで、
奄美大島なんかから船が来ると、カヌーみたいなのを漕ぎ出してきて、
沖で客が大きな船から小さな船へ移る、
そのときに波がこう揺れるんで、大きな船と小さな船が同じ水準になったときに、ピョイと飛び移る。
あそこらへんは歓迎の言葉でもなんでも「ヤイ」というんですけども、
「ヤイヤイヤイヤイ」と夜中闇の中で声が掛かるんで、
どやされたのかと思うんですがこれは歓迎の言葉であって、
歓迎の言葉は島が一つ違うと、あのへんでは全部違うんです。
喜界島とか永良部島では「ヤイ」かもしれないけども、
奄美大島では「アゲー」というんですね。
皇太子が来ると、ここに新聞がありますが、
「全島こぞってアゲーの声上がる」と書いてあるんですけれどもね。
そうゆう島は珊瑚礁で白くて、ガジュマルの木が生えていて、
数千年前と同じ波の音、同じ色で、
スモッグもなければ、煙突もなければ、人家もない。
ところがそうゆう珊瑚礁にたった一軒、ブリキで小屋が建ってるんですね。
そして「サロンパリ」などとかいてある。
まぁここが我が国の我が国たる所以なんですけども。
この南海の「サロンパリ」へ入っていくとどうゆうことになるかというと、
シャコ貝というシェルの石油のマークになっている貝がありますけれども、
ああゆう貝を肉をとった後、洗って、さらして、これを杯のかわりにする。
黒砂糖からとった焼酎をダブダブダブダブダブ‥と注ぐんですね。
これは底がついてないから、
グゥ〜と安宅の関の弁慶みたいに全部飲み干してしまわないことには置くことができない。
置くとコロンと転がってしまう。
それでそうゆう焼酎をそのまま出されるまま飲んで、
ばたんきゅうといって客が倒れると、「これはいい客だ」といってほめてもらえる。
大体奄美大島でそうゆう習慣ですけども、そうゆう島になると特にそれが濃厚激烈なんです。
私の友人は十何人か何十人か位の人口しかないその島で、
おじいさんにその島に伝わる昔からの民話を色々聞いてたんですね。
でテープレコーダーに録ったりなんかして、
言語学者ですから色々別の種類の研究、分析をやってたんだと思うんです。
それでもう最後だと思って
今日これでお別れするというんで海岸で別れて、
するとそのおじいさんが別れていったんですが、汗ダクダクになって帰ってきてですね、
「家帰って戸を開けたらこれくらいの長い虫がいました」と言うんですね。
でその言語学者夫婦は、つまり今おじいさんが家へ帰って戸を開けたら、
南方には木の倒れたあとヤスデという長いムカデの親玉みたいな虫がいますけども、
それが水屋かどっかに入り込んでいたのを、それを知らせにきたんじゃないかと思って、
「あ、そう」と言ったら、
よくよく聞いてみると違うんですね。
それが民話なんです。
それだけきりの民話なんですね。
『家帰って戸を開けたらこれくらいの虫がいました 』
たったそれだけきりなんです。
それでプリンストンとハーバードと東大はひっくり返ってしまってですね、
人類数千年間の言語活動が一挙にひっくり返されたような思いになって、
呆然として奄美大島に帰ってきて、
そこでまたお酒飲んで呆然としている私とあって、
それでこうゆう話を聞いて、
僕も実は近年ああゆうショックを受けたことがないんですけども、
ひどいショックを受けて、それからその話が忘れられない。
大体どの民族、古今東西どの民族の民話を読んでもですね、
浦島さんにしてもカチカチ山にしても、あるいはジャックと豆の木にしたって、
家庭があったり、少年がいたり、
悪魔が出てきたり、善と悪が戦ったり、とかこうゆうことがあって、
現世の現実を、いくらかバリエーションを、
あるいはおおいにバリエーションをつけてそれを語る。
とゆうことで意識の空間を埋めていく。
で別の空間を創りだす。
こうゆうのが民話の根本的な衝動だろうと思うんですけど。
だけど、
『家帰って戸を開けたらこれくらいの虫がいました 』
とゆうのはこれは何だ、と僕はいうんですけどね、
空間衝動ではない、時間衝動ですらない。
未だに僕はこれがわからないんで、謎のように漂っている。
スフィンクスがその下を通る軍隊に、じゃない人間に謎を投げかけて困らせた、
という話がありますけども、
そのスフィンクスの謎の一つの筆頭はこれじゃないかと思いたくなるくらいなんで。
どうすればこうゆう物の感じ方、考え方というものが出てくるのか、
柳田邦男さんが生きてらっしゃったら、早速とんでいって尋ねたいところなんですけれども、
それでそのプリンストン及びハーバード兼東大に、
「これはいったいどうゆうこと?」と聞くんだけど、
彼らは呆然としたまま、
「どうゆうことかわからない、とにかくそうゆうことだ」と言うんですね。
もし世界民話コンクールというものをやったならば、
ちょうど真ん中へんくらいまできて、審査員がたるんだ頃にこれをポッと出せば、
一発で一等になれるんじゃないかとゆうふうに私は思うんですね。
文学が理想とするところは色々あって、
単純さを理想とする、
複雑さを理想とする、
繊細さを理想とする、
剛健さを理想とする、
色々ありますけれども、
おそらく百人の作家がいれば百の理想があるんだろうと思いますけれども。
もしこの民話をその島の子供が、子供の時から聞かされて育って、
そうゆう物の考え方、感じ方というのが、
私には到底掴みようもないんですけど、それが身についていて、
その民話を、
「太郎ちゃんいい子だからお話聞かせてあげるからねんねするのよ、
家帰って戸を開けたらこれくらいの虫がいました」
せいぜいついている注釈で、こんなんでもない、こんなんでもない、このくらいだった。
と言ったというんですけどね、おじいさんが。
これは本望に対する注くらいのところであまり意味がない。
それを喜び楽しみ、それで心が満たされるというんならそれでいいんであって、
これはおそらく文学の理想ではあるまいか、という風に私は考えるんです。
到底私にはそうゆうことは考えようにも考えつきようがない。
ヨーロッパでブルトンなんかがシュールレアリスム運動をやったときに、
色んな突飛なアイディアを結びつけて、
閃光と言うか、花火と言うか、そのようなイメージがひらく、
そうゆう詩の運動を始めたことがありましたけど、
どんなシュールレアリスムの詩を持ってきても、
これを凌ぐことはできないんじゃないかとゆうふうな気がするんですね。
こうゆうものをつくり出したものはどうゆうことなんだろうかと思って、
未だに考えてるんですけども、謎のまま漂っていてわからない。
そうゆうこともあるんだということだけ申し上げておいて‥
普通小説を書きにかかるときによくいわれるのは
視覚型か、聴覚型か、
つまり眼で見るタイプの小説家か、音で聴くタイプの小説家か、
そうゆう分け方、分類法があるんですけど、
それに匂い、香りということも大事だろうと思うんですが、
プルーストのような小説家は香りが非常に重要な役を果たしていますけれども。
例えば、という話をすると、去年までは私はすぐに、
インドシナの田んぼで倒れている殺された農民の眼の上にハエが這っていまして‥
という話をすぐ引っ張ってきていたんですけども、もう戦争の話はつくづく嫌になったので、
今日はそうゆう例えをもってこないで、もっとやさしいとこから引用したいと思うんですけど。
経験というのにも色々ありますけれども、
例えば私がある女友達と、
例えばの話ですよ、
レストランへ行ったとします。
それでロウソクの、キャンドルライトで食事をしたとしますね。
キャンドルライトでなくても、キャンドルライトに等しいような薄暗い中で食事をしたとする。
薄暗い中で光っている、こちらが大いに関心を寄せている女性の眼というのは、
これ以上の宝石はないと私は思っているんですけども。
それでその眼ばっかり見つめて、私は食事をし、お酒を飲み、楽しんで、
いい気持ちになって、外へ出て別れる。
別れてから一町ほど行ってから、愕然とあることに気がつく。
つまり私はその女性の、女友達の眼ばっかり見てたんでけれども、
よくよく考えてみると、その女友達の眼は、私と女友達の間にある中間のどこか一点か、
もしくは私の後ろ辺りを見ていたんであって、
私を見ていたんではなかった。
ということに気がつく。
例えば、ですよ。
こうゆうのをフランス語で、アムール アメール(Amour Amer)苦い恋というんですけど。
それで私は非常に苦いキズをうける、キズをうけると人間はそれを克服しなければならないんで、
勝手な理屈を色々考えだすんです。
しかしどおしても私の勘に過ちはないと私は思う、ここが出発点で、
彼女は私を見ていなかった、関心が私になかった。
恋というものは最初の一瞥で大体のところの本質は決まるような気がするんで、
何度もそれ以前に食事をしていてわかっていなければいけないのに、
未練があって、あるいはこちらに過剰なものがあったために、
最初の知性的な認識を踏み外してしまって、どうも私のうぬぼれか間違っていたと。
それから彼女は私を見ていなかったけれど、そうするとあれはいったい何を見ていたんだろうとか、
しかし恋は押しの一手ということあるから、
知らぬふりしてもう一度再三攻撃やるか、203高地という例もある、などと考えたりもするし、
いや年甲斐もないとささやく声にも耳を傾けたり、とつおいつ迷う。
それで日が過ぎていくんですけれども、そうするとその時‥これ全部例えの話ですよ。
色んなコンペンセイション(compensation)というか、
補償作用をやって弁解したり、恭順したり、
「なんだあんなつまらない女」と時にはいってみたり、
「いやそうでもない」と思い返してみたり、とゆうふうなことをやりますけれども、
これは後から出てくるもので、最初につきまとって離れない、
それから私の薄暗い意識の中で浮き沈み、明滅するのは、
ロウソクの光の中で夜の湖のように輝いていた、その女友達の眼であると。
その眼がつきまとって離れない。
つきまとって離れないものは私にはいっぱいありますけれども、例えばそうゆう眼がある。
そうするとこの眼をなんとかして克服しなければいけないということになってきて、
もちろん色々今さっきいたような弁解、強弁、あるいは次の戦術戦略、
色んなことを考えますけれども、あるいは心理分析ということも考えるんですけども。
最初にくるのはイメージなんですね。
このイメージが意味するものは言葉にかえられない、それを必死になって言葉にかえようとする。
言葉、または文字にかえようとする。
なぜか?
その呪縛から、束縛から逃げたいからなんで、
それはたとえば彼女が私を見ていたとしても、
もしその眼が夜の湖のように輝いていて、私につきまとって離れていなかったらですね、
私は恋を得たうえに、またその宝石のような眼まで得たんですから、
果報者とゆうことになるんですけれども。
そのときでもやっぱりその眼は私につきまとって離れないんじゃないかと思うんですけどね。
いずれにしても私は敏感なんですから。
そうするとこれを克服するために何故文字を選ぶか、
ということが問題になってくる。
今までのが例え話で、これからが現理論になるわけですけども、
色んな解釈のしかたがあるんですけれども、
そしてどの解釈も先に申し上げたように少しづつ真実であるが、その全部を合わせても、
言語とゆうものの衝動を解説することはできないんですが、
私がよく考えるのは、好きな考え方というのは、こうゆう考え方なんで‥
例えば言語とか文字とかゆうものが出来なかった、
出来ていなかった昔、時代があって、
その時ライオンという文字は出来ていなかったし、
ライオンという言葉も出来ていなかったわけですね。
するとライオンとは何かといいますと、強いて解説すると、
強力な脚をもち、鋭い爪をもち、ものすごい牙をもっている、混沌とした恐怖の固まり。
速くて、痛くて、鋭い、恐ろしい混沌の固まりなんですね。
ライオンじゃなかったわけです。
ところが一度これにライオンという言葉をつくってあてはめてしまいますと、
ライオンはどうなるかというと、人間の意識の中でかわってしまう。
やっぱり依然として、鋭くて、速くて、恐ろしい牙をもっているけれども、
ただの四つ足の獣にかわってしまうわけですね。
ここで克服できたわけです。
これが文学の始まりなんです。
と私は考えるんですけども、そうゆう考え方の方が私は好きなんですね。
それで人類は意識の内と外にある自分の心と体の内と外にある世界を克服すると称して、
そうしなければ生きてこれなかったから、それで無数の言葉を編み出してきたわけですね。
それで現実を覆ってきたわけです。
それで克服し、今度は克服しすぎて、現代にいたっては言葉の数が多くなりすぎて、
その数の大きさ、広さ、重さ、複雑さのために、
人類はかえってよろめいてですね、本体を掴むことが今出来なくなってきている。
つまり石器時代にはライオンという言葉がなくて、
我々の髭もじゃの先祖が苦しみ抜いたんですけれども、
そして最初に誰がこのライオンという言葉を発明したのかわかりませんが、
ものすごい男だったと思うんですね。
それからライオンは一例のすぎませんけれども、
もっと恐ろしいこと、強大な、強烈なことを発明した男は、
「夜」という言葉と、
「ひ」?という言葉を発明した男ね、
これが人類の最大の脅威だったと思うんですけど、
少なくとも夜の一部分、あるいは夜の本質の一部分を、
夜という言葉をつくることで我々の中へ獲得してしまった。
それで夜に立ち向かう力を与えてくれた。
その力が幻覚であったか、リアリズムであったかということは、今はもう議論できない。
いずれにしてもそうゆうことをした。
だから「夜」という言葉と「ひ」?という言葉を発明した男は、
たいへんな男だったと思うんです。
おそらく一人ではなくて、何千年とかかって苦しみ抜いてつくったんだろうと思うんです。
それでそれほど苦しんで現実に対応したんですが、
今はそんなに現実に苦しまなくて次から次へと無数の言葉をつくってきて、
次から次へと発生していく、
あるいは自分が生み出していく現象及び現実に対して言葉をあてはめていくわけです。
それで今度はどうゆうことになるかというと、言葉自体が自己展開、自己増殖を始めて、
現実がないのに、言葉そのものが現実になってしまうような世界がきてる。
それすらも過飽和になってしまって、今どうしていいのかわからないという状態があると思うんです。
それでしかし依然としてやっぱり
石器時代に我々を襲った恐怖というか混沌とゆうものは我々の内部に依然として潜んでいて、
これが人間の影の部分として我々の言動を支配しているんじゃないか
と思われることがしばしばあるわけです。
それが証拠に、名状に苦しむという言葉がいっぱいありますからね。
名状に苦しむことはいっぱいあるわけです。
それは依然として続いているわけです。
人間の本質はあまりかわっていない。
ただ無数の言葉が出来ちゃって、
その遺産のために背骨が今折れそうになっているというのが我々の偽らざる所ではないかと、
特に都会ではそうじゃないかという気がするんです。
そこでまたもう一度私が錯覚、誤解した優しい女の眼に戻りますけれども、
で今ライオンはいないので、私の身のまわりに女の眼だけが漂っている、
それでこの眼の呪縛から逃げたい、
夜の湖のようなといいましたけれども、私がその彼女の眼、暗がりで輝いていた眼を、
夜の湖のようなという言葉に置き換えることで満足が出来たならば、もうそれでいいんですけれども、
いや夜の湖のようだというよりはむしろ、木陰でうずくまっている猫の眼のようだった、
どうもこれでもないらしい。
というので色々考えていくわけですね。
ここから小説の第一歩が始まる、というか文章の第一歩がここから始まってくる。
稗田阿礼っていうのはそうゆう細かいところを考えなくて、
もっとおおらかな時代に生きてましたから、
ぼきぼきとあっちでこうゆうことがあった、
こっちでこうゆうことがあったとゆうようなことばっかりを
綴っていったんですけれど、根本的な衝動ではかわってないだろうと思うんです。
それでその女友達の暗がりで輝いていた眼を克服するために、
無数の言葉を使うんですが、このときにおこることは今度は何かというとですね、
逆の現象が起こってくるんですね。
特に現代では。
逆の現象が起こらなければならないんです。
つまり無数の言葉があるのに、現実がその言葉から全然感じられない時代にきていると、
それで女友達の眼を見てすぐに夜の湖、あるいは木陰の猫の眼、
という言葉を考えだしたけれども、それでも彼女の眼がつきまとってきて離れない。
その混沌に対して秩序を与えなければならない。
というので私は言葉をつくっていくんですが、
そのときは私がつくったのではない、
人類が数千年かかってつくってきた言葉の中からいくつかを選び出してきて、
自分なりに配置してつくり出すわけですが、
これは今度はどうゆうことかといいますと、
ライオンという言葉を拒んで、ライオンというものを直視しようとする態度ではないかと、
ライオンやら女やら何やらだんだんややこしくなってきましたけれども、
聡明な皆さんはすでに本質を掴んでいらっしゃると思うんですけれども。
手垢にまみれた言葉という表現がよくありますけれども、
手垢にまみれた言葉でつかってはいけないんで、
ページを開いたときに、活字の字母を新しい鋳造機で、
つくったばっかりの活字で組んで、ページをつくったという感じのするような、
そうゆう明晰な、澄明な感覚が私は好きなんですけれども、
それには手垢にまみれた言葉というものをつかってはいけない。
それから使い古された言葉もつかってはいけない。
といってしかし、普遍性のある言葉も選び出さなければならない。
色々苦しんで、
お酒を少し、水を少し、
お酒を少し、水を少し、と毎晩考えるわけですね。
お酒を飲み過ぎるといい言葉はどんどんどんどん出てくるけれど、
自分は天才じゃないかといまだにこの歳になってもうぬぼれたくなる一瞬があるんですが、
明くる日になって読み返してみると、
バカバカしくなって紙くずかごへ捨ててしまう。
といって真剣の素面でやっていると、つらいばかりで、
彼女の眼だけが漂って私を苦しめるんで、ものが書けない。
書けなければ書けないでいいんですが、
書きたい衝動があるときに書けないというのはつらい。
それで酒に力をかりる。
かりすぎてはいけない。
それで水を差すわけですね。
生湿りのマッチみたいな状態で小説を書いていくんですけれども、これは難しいんですよ、
これを持続させなければならないんですが、
なかなかこうゆう幸福な時間は続かないんです。
そうゆうわけで、
これは原始人がですねライオンの身振りをして踊りをする。
その時彼は自分に、ライオンの鋭い牙、逞しい腕、速い脚、強力なジャンプ力、
といったものが身に付いたかのように感じて踊るわけですね。
あれは何のために踊るかとゆう説、
これまた無数にある、解釈があるんですけど、
そんな踊りをしたところで自分がライオンになったのではない、
ということはライオンと毎日暮らしている我らの先祖はことごとく知っていたわけです。
知った上であの嘘の踊りをやっているわけです。
そしてそのことに高揚していたわけですね。
それで今の小説家は嘘がつけなくなっていると言う衰弱した状態に落ち込んで、
これが大変困ったことなんですけれども、
文字を書こうという努力、あるいは言葉を発明しようとする努力で小説を書いていく、
そして自分の中にある何事かを克服する衝動から書き出す。
小説家だけでなしに、人間がみんな自発的に字を書くとき、
つまり帳簿をつけてるんではなくて、
一人になったときに日記をつけるなり、
あるいは恋文‥恋文は古いなぁ、ラブレターは品が悪いし、
そうゆう恋の手紙を書くときでも、
あるいはお別れの手紙を書くときでも何でもいいですが、
自発的に何か文章を書いているとき、
そのうしろにあるものは、今私が説明したようなことではないかしらと思うんです。
つまり文学の始まりなんですね。
それが文学になるかならないかという分かれ道はまた無数にありますけれども。
そうゆうわけですから、
言葉というものは人間につながるものなんですね。
文字というものも人間につながるもので、
人間から離れることが出来ない。
私が少年時代に憧れたような純粋さというものは、人間の世界にはあり得ない純粋さなんで、
これは不毛の純粋さなんですが、
これが不毛だということに気がついたのはずっと後になってからの話で、
近頃でもまだ時々その不毛の純粋を求める衝動に襲われることがあるんですけれども。
こないだ北海道へ行きまして、
2月の末ですけども、
知床半島へ行って羅臼という町がありますけれども、
流氷を見たくていったんですけども、
北海道は何遍となく行ってるんですが、流氷を見るのは私初めてなんですが、
これがこの海を埋めてるんですね。
それであそこの流氷は氷原になって、
氷の原になって、沖の彼方まで広がっていて、
国後島まで歩いて行けるんじゃないかという感じがする。
だけども四畳半一つぐらいの部屋、
あるいはちょっとした掘建て小屋くらいもある大きなのがですね、
一個づつバラバラなんですってねあれは。
それで塊と塊の間に海の水が入ってるんで、
それが潤滑油の役をするんで、その海水が凍らない限り、氷の塊はひっつくことがないというんです。
そのうちに猛吹雪になってきまして、
二日か三日ほどその羅臼の町に閉じ込められて動けなくなったんですが、
海が流氷をのせたままうねるんですね。
そうすると突堤よりも海面が高くなって、今にもこっちにおしかけてくる。
流氷と流氷が喧嘩を始める。
そうすると下からこう迫り上げられてきてはみ出した流氷はどうなるかというと、
突堤の上へ這い上がってくるんですね。
這い上がってきてそこへドタッと挫折して、
「孤独だ」と叫んで居座ってしまうのもいるし、
「なにを!」といってこっち港へドドドーンっとなだれ込んでくるのもいる。
その流氷の戦争を見ている。
明くる日になると、
嵐の明くる日なもんですから、
すばらしい透明な朝がやってきまして、
それで海全体が、メキシコ産のオパールで「白」「青」「金」の輝いているオパールがある。
「赤」「金」の輝いているオパールと、二種類オパールがありますけれども、
「白」「青」「金」の輝くオパールみたいに、
海面全体がそのオパールのような輝きになってしまうんですね。
なぜそんなになるかといいますと、流氷原と言うのはでこぼこなんですね。
厚いところもあれば薄いところもある。
で喧嘩した後ですから海は、流氷はもうギザギザになっている。
それに日光が当たって乱反射してくるもんですから、
すばらしく美しい。
徹底的に不毛で、徹底的に純粋なんですね。
それを見ているうちに、
昔自分が求めていたのはこうゆう風なことなんではないかしら
とゆうふうなことを思い出したりして、危険を覚える。
吸い込まれるような感じになってきて、
こうゆうものをながく見続けていると、また人間の世界に戻るのにえらい苦しまなきゃいけない。
俺は自殺することが出来ないんだということを子供の頃に悟ったはずだから、
こうゆうものをあんまり見ちゃいけないんだと。
それで汚濁にまみれ苦い恋ばっかりしていてもしょうがない、
人間の世界に戻るより他ないんだと思って戻ってきたんですけれども、
にもかかわらず、
私は人間嫌いの衝動が濃厚にあるんですが、
小説を書いている。
字を書いている。
小説であろうが、エッセイであろうが、論文であろうが、ノンフィクションであろうが、ルポ、
何でもかまいませんが、
文字を書いているということは、これは人間の世界に住んでいるということで、
人間に関心があるということなんですね。
関心がなければ、本当の絶望者というのは何も書かないはずなんです。
だからよく「絶望の暗黒文学」とゆう風な広告文句が出ますけれども、
文学には絶望ということはありえない。
ドストエフスキーがどんなに人間の暗黒面を描き出して絶望を書いていても、
セリーヌがどんなにものすごい絶望を書いても、
あるいは三島由紀夫が徹底的に不毛な世界を書いていても、
字でものを書いている限り、彼はヒューマニストなんですね。
ここでゆうヒューマニストというのは人間主義者という意味で、
人間を愛してるという意味ではないんです。
人間を憎んだって構わない。
憎むということも愛の一種の変形だ
と学校の先生か牧師さんならすぐ言いくるめてしまいますけれども、
そこまで私は図太くないんで、
そうゆうこと出来ませんけれども、
愛そうが、憎もうが、絶望しようが、何しようが、
字を書いている限り、あるいは字を書こう、何かを書こうとする衝動がある限り、
彼は人間主義者なんです。
日本語のヒューマニストという言葉は誤ってつかわれすぎてるんで、
ヒューマニストというとすぐに心の温かい人かということになりますけれども、これは間違ってる。
心の冷たい人もヒューマニストになりうるわけです。
ヒューマニストという定義によればね。
人間に関心を持っている人、持たざるをえない人、これがヒューマニストなんですね。
この人は不毛の純潔にあこがれることが出来ない。
あこがれてもそれはその人のセンチメンタリズムか夢にすぎない。
ということを悟るべきなんですけども。
とはいっても時々そうゆう流氷のような、徹底的に素晴しいものを見ると、
体が割かれるような気がするんですけれども。
ですからいかに絶望が語られていても、
それは字で、文字で綴られている限り、
意味の世界と人間の世界に住んでいるんであって、
絶望という背を裏返して人間にくっつこうとしている。
そうゆう態度なのであって、悪魔にはなりえない。
全ての作家は悪魔になれない。
悪魔というのは流氷みたいなのをつくり出す奴のことを悪魔というんですね。
私の定義に従えば。
自分が言葉であまり苦しめられて振り回されるもんですから、
文字とか言葉とかこうゆうカゲロウのようなものではなくって、
音とか色とかゆう風なものには、絶対音、絶対色とゆう風なものがあるのではなかろうか、
とゆう風な気がしたことがあったんですね。
で極時たまで、なかなか説明しにくいし捉えにくいんで、
具体例を挙げることが今出来ないんですけれども、
音楽を聴いていると時々ひどい悪魔を感じる時がある。
チラッと悪魔の顔が見えるんですね。
なにか絶対音と言ってもいいようなもの、音をつくり出してる場合があるような気がする。
音とか色とかいう風なものにはひょっとしたら、
意味のグニャグニャした、どのようにでもかわりうる意味の世界を拒否したところにある純潔な不毛の、
徹底的に絶対的な境地をつくり出すことが出来るんじゃないか、
ということを子供の時に考えたことがあるんですが、
それで絵描きになりたい、とか音楽家になりたいという風に思ったんですけれども、
その後小説家になってから
色々な音楽家だとか、色々な画家と接触して色々話をしてみるとですね、
どうも彼らもやっぱり同じようなことを考えているらしくて、
その絶対音、絶対色という風なものはありえない。
あらせようと思って必死になってやるんだけれども、そうゆうものは生まれえないんじゃないかと、
そうゆうものを求めようとして別種のものをつくり出す、
それが素晴しいものになるということがあるんだけれども、
絶対音、絶対色というものはあり得ない。
やっぱり人間の世界に、
愛してるか絶望しているかは別として、憎むか愛するかは別として、
人間の世界に戻って行くより他ない活動なんじゃないか、
という意見を述べる人が多いんですね。
名前を挙げませんけども、かなり有名な大家、あるいは大家になるべく予想されるような中堅、
そういった人たちがそうゆうことを言うんですね。
それから同じようなことを言う。
「そうゆうことをしゃべり出したり考え出したりするようになると絵が描けなくなる」
と言うんですね。
「絵が今描けないからあなたそうゆうこと私と話してるんじゃないんですか」と言うと、
「その通りだ」と言うんです。
「それじゃあ小説家と同じだ」と言って、
「じゃあもうこんな話はやめよう、女の眼の話をしよう」
今言ったのは嘘で、
「女の話をしよう」と言ったんですけども、
酒飲んで女の話をする。
それから徹底的に絵描きはルネッサンス以来人間を裸にして、
女、または女性、または女の人を裸にして描いてきたけれども、一カ所描いてないところがある。
「日々素晴しく深い恩恵にあずかっていながら、
女体の一カ所を絶対絵にして描いたことのない部分がある」と私が言うと、
その絵描きは、「あれだ」と言ってすぐに一言で言い当てましたけれども、
「あれは絵にならんのだ」とこう言うんですね。
皆さんが想像してらっしゃる部分じゃないですよ。
その背景にある部分ですけども。
それを絵にした人はいないんです。
ハンス・ベルメールってゆうのが一人いたということを最近になって発見して、
もうちょっと勉強しなきゃいけないと思わせられましたけども、
これは芸術になってましたね。
長い間あれは見捨てられたままになってたんです。
今後出てくるんじゃないかと私は思うんですけどね。
あれを美しく表現することは出来るはずなんです。
そうゆう話をしてる方がいいんで、絶対とゆうふうなことを言い出すともうダメなんで、
あるいはダメになってるからそうゆうことを言い出すんだとゆうことになるんで、
これは避けた方がいいわけですね。
そうゆうわけで、
音楽の世界、絵の世界は私の専門外とゆうことにしておいて、
まだ絶対音、絶対色の境地というものはあり得るんじゃないか
という夢想の段階にとどめておきますけれども、
小説、こと小説の世界に関する限り、絶望の文学というものはあり得ない。
前向きになってるか、後ろ向きになってるかだけの話で、人間にくっつこうとしている。
人間から離れたいということばっかり書いている小説がありますけれども、
離れたいという衝動で人間にくっついている。
だから彼は人間主義者なんで悪魔になりえない。
全ての作家はものを書いている限り悪魔じゃないんですね。
なれない。
沈黙し始めたら考えなきゃいけませんけれども。
その沈黙が意識して、徹底的に俺はもう人間を見捨てるんだ、と意識してやってる沈黙か、
ただ書けなくなって才能が枯渇しての沈黙なのか、
にわかに判断しにくいところですけれども、沈黙以上の悪はないんです。
無関心以上の悪はない。
とゆうふうに私は思うんです。
だけど社会生活の面からみていくと、無関心と沈黙の領域というものは、
二十世紀になってどんどん広がる一方なんですね。
これをどうしていいのか、
言葉が増えるのをどうしておさえていいのか、と同じくらいに大問題。
だからいささか突飛な皮肉な表現をしますと、
数千年かかって、二千年か三千年か正確にわかりませんけれども、
ものすごい言葉をつくり、ものすごい知識を生み出して、
エンサイクロペディア、ブリタニカこんだけありますけども、
ちゃちなアパートなら床が抜けてしまうぐらいなんで、
それだけのものを全然自由自在にこなすことが出来ないで苦しんでるわけですけれども。
だからある意味ではですね、突飛な言い方ですけども、
世界を征服するのは、原子爆弾を持っている最も言葉数の少ない国民、
これが世界を征服できるんじゃないかと思うんです。
ただこれには矛盾がある。
原子爆弾、それは最終武器という意味ですけど、
最終武器は破裂させる、つかうことが出来ないんですから、
言葉数を少なくすることは政治でいくらでも出来ますけれども、
一国内にそれがとどまって、世界を征服する国民は今後出てこないんじゃないか、
とゆうふうに私は考えるんですけども。
だから今矛盾したことを言ったわけです。
絶望の文学という言葉が矛盾だと言いましたけれども、
それと同じくらいに矛盾した言葉を今言ったわけです。
あっちゃこっちゃ飛び歩くことを始めて、十年間ほっつき歩いたわけです。
日本国内もほっつきましたけども。
それでルポを随分書いて、まぁ早くいえば浪費をしていたんですけれど、
十年さまよい歩くとかなりのものがたまってくるんで、
それを今後ぼつぼつ瓶詰めに‥瓶詰めっていうのはおかしいな、
文字にかえる努力をして小説を書いていこうかと思うんですが、
何と言いますか、小説とゆうものも非常に書きにくいもんだということがわかってきて。
私はまぁ自分で言うのは変なんですが、人生をちょっと焦りすぎて早熟で、
18歳の時に所帯を持ちまして、20歳で子供を作りましてですね、
今41ですけども子供が二十歳で、45くらいで私はおじいさんになれるんですが、
65くらいになると曾じいさんになる。
今の子も肉体的には早熟ですから、
私の娘が私と同じようなことをやると‥するとですね、
45のおじいさんというのが発生するんですけれども、
「1ダースくらいつくってやろうか」
なんてことを娘に言われるとゾッとするんですけれども。
私には独身生活というのがなかったんですね。
でその反動がきたんです。
この十年間に。
ものすごい反動、つぶさには語りませんけれども。
止めても止まらない。
もうしょうがないから反動のままで、
振り子のままで揺れようという決心をしたことがありまして、揺れるままに揺れてたんですけれども。
家庭で生活出来なくなってしまったんですね。
それで去年も半年ぐらい家を外にして、あっちの旅館こっちのクラブと泊まり歩いて、
今年もそれなんです。
で独身生活というのはこんなに楽しいもんかというのがやっとわかったんですね。
それで出版社の人がやって来まして、
「第二の青春ですな」なんてなこと言うから、
「冗談じゃないよ俺はこれが第一の青春なんで40になって第一の青春やってるんですよ」
と言うんですが、みんな
「ハッハッハ、御身大切に」なんてなことを言うんですけども。
世間の若者が侘しいような顔をして、駅前の「キクヤ」とゆう風な食堂で飯を食ってるんですが、
鯵のフライにお新香に冷えたご飯食べてもう本当に辛そうな侘しい顔をしてるんですが、
私一人は生き生きしている。
何でこうゆうことを知らなかったんでろうかとゆうことでですね、
生きていてよかったという感じになってるんですけれども。
一つだけ経験したことがあってそれを申し上げますとね、
70年に私は小説を書こうと思い立って、
山の中に籠ったことがあって、
新潟の山奥で当時は道路がついてなかったんです。
電灯もきてなかった。
湖のほとりで、こんな岩魚が、釣れたらこんな岩魚がいるぐらいの湖なんですが、
そこで籠りましてランプで暮らしてたんですが、
文壇に小説家の数は多いけど、
三ヶ月間ランプで暮らしたのは私ぐらいじゃないかと思ってるんですけども、
そうすると心身頓に壮快を覚えですね、一切合切空無と化してしまって、字が書けないんですね。
全然書けない。
それは私がちょうど小説がまだ熟してなかったんだと後で弁解することにしましたけれども、
あんまり健やかで、美しくて、透明でとなってきますと、
何しろこうゆう混濁した水道の水なんか飲まないで、岩魚の住んでる山の清水を飲んでるわけですが、
水道栓から山椒魚が飛び出してきたりする。
そうゆう山小屋なんです。
それで山小屋のおっさんとルンペンストーブにあたりながらランプの灯の下で、
焼酎を飲んでですね、
「熊はどうして捕るか」とか、
それから、
「狢と狸はどう違うか」とかですね、
「狸をつかまえるにはどう攻めるか、穴はどう掘ったらいいか」とゆう風な話ばっかりして、
毎日毎日そんな話ばっかりしてちっとも飽きない。
これは私が都会生まれの都会育ちのせいもあるんでしょうけども、
いかに日頃混濁してるかということをそれで思い知らされる。
それで僕は女についての法螺を山小屋の人に話するわけです。
そうすると向こうは原始人で私より偉いから、
私が法螺を吹いてるんだと言うことを知った上で、アハアハと笑ってくれるわけですね。
それで、白い女も、黄色い女も、黒い女もみな同じだぞ、だから母ちゃんを大事にしろ。
とゆう風な必ず教訓がつくんですけれども。
母ちゃんが横で聞いてるから、それ以上の逸脱は好ましくないわけですね。
山の中だし。
三ヶ月間いてて、
ものすごく神経が鋭くなってきて、
ある朝四時頃、部屋の中に誰かが立ってるとゆうようなショックに襲われて、
心臓がドキドキドキドキしてくるし、
こんなところへ泥棒が来るはずないし、泥棒がきたって盗っていくものないし、
と私のロゴスとエトスはそう説明するんですけども、
エロスは抜きで、パトスの方がですね、誰かがいる、俺を殺そうとしている。
と突飛もないことを考える。
それで全身が凍り付いたみたいになってしまう。
それでよーく目をおし開けるようにして見ていくと、ズボンがだらしないのが壁にぶら下がっていて、
そこに蝶々が一匹とまっていまして、羽を開いたり閉じたりしてるんですね。
ただそれだけなんです。
そこまで俺もキレイになったかという感じがした。
でガバッとは跳ね起きないで、そのまま寝てしまいましたけれども。
それで夜黄昏れにならないと私は机の向かう気力がおこってこないんですが、
黄昏に向かうと字が書けない。
いくら考えても字が書けないし、書きたいことはたくさんあって、
動いてるということも感じられるんですけども、一字も出てこない。
それで鳶が魚を取り損ねて、湖で取り損ねているのをじぃと眺めて、
やっぱりお前にも魚は捕りにくいか、とゆう風な友情を感じたりするんですが。
だから清らかな生活が文学を生み出すとは限らないんで、
それで東京へ帰ってきて溝泥のひどい、
そうゆう中で暮らし始めるとやっと字が流れてくるようになってきた。
だから字というのは病の産物なんじゃないかという風な気がする。
かねがねそうは思ってましたけど。
そして病がなければ文学というものもひょっとしたら出てこないんじゃないか。
武者小路先生のように人生は楽しくて美しいということを、
十年、二十年平気で淡々とお書きになる、
ああゆうダイアモンドのような人物がたった一人だけ今残ってますけれども、
ああゆう人は大事にしてあげないといけないで、
私は努めて読むようにしてますけども、アクビしか出ないんで申し訳ないんですけども、
実に羨ましい人なんです。
あの人は病抜きで文学を書いている唯一の人じゃないかと。
何だかの意味で病かキズか
そうゆうものがないことには文学とか文字とかゆうものは生まれてこないんじゃないか、
そこでやっぱりライオンに苦しめぬかれてズタズタになってた
我らの髭だらけの先祖が何とかしてこれを克服しなければ、
というんでそれでライオンという言葉を思いついて彼にあてはめた。
そして意識の空間を埋めて一歩前進した。
そうゆうことをそこでもう一遍再認識するわけです。
えーとぼつぼつ時間が来たようで、
結論が出たのか出ないのか私にはさっぱりわからないんですけれども、
話をしていて結論が出るようだと文学はおしまいだということがあるんで、
このへんで止します。
どうもありがとうございました。
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