『経験・言葉・虚構』(24)

そうゆうわけで、
これは原始人がですねライオンの身振りをして踊りをする、
その時彼は自分に、
ライオンの鋭い牙、逞しい腕、速い脚、強力なジャンプ力、
といったものが身に付いたかのように感じて踊るわけですね。
あれは何のために踊るかとゆう説、
これまた無数にある、
解釈があるんですけど、
そんな踊りをしたところで自分がライオンになったのではない
ということはライオンと毎日暮らしている我らの先祖は
ことごとく知っていたわけです。
知った上であの嘘の踊りをやっているわけです。
そしてそのことに高揚していたわけですね。

それで今の小説家は嘘がつけなくなっていると言う衰弱した状態に落ち込んで、
これが大変困ったことなんですけれども、
文字を書こうという努力、
あるいは言葉を発明しようとする努力で小説を書いていく、
そして自分の中にある何事かを克服する衝動から書き出す。
小説家だけでなしに
人間がみんな自発的に字を書くとき、
つまり帳簿をつけてるんではなくて、
一人になったときに日記をつけるなり、
あるいは恋文‥恋文は古いなぁ、
ラブレターは品が悪いし、
そうゆう恋の手紙を書くときでも、
あるいはお別れの手紙を書くときでも何でもいいですが、
自発的に何か文章を書いているとき、
そのうしろにあるものは、
今私が説明したようなことではないかしらと思うんです。
つまり文学の始まりなんですね。
それが文学になるかならないかという分かれ道はまた無数にありますけれども。

そうゆうわけですから、
言葉というものは人間につながるものなんですね。
文字というものも人間につながるもので、
人間から離れることが出来ない。
私が少年時代に憧れたような純粋さというものは、
人間の世界にはあり得ない純粋さなんで、
これは不毛の純粋さなんですが、
これが不毛だということに気がついたのはずっと後になってからの話で、
近頃でもまだ時々
その不毛の純粋を求める衝動に襲われることがあるんですけれども。

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