『経験・言葉・虚構』(27)

だからよく「絶望の暗黒文学」とゆう風な広告文句が出ますけれども、
文学には絶望ということはありえない。
ドストエフスキーがどんなに人間の暗黒面を描き出して絶望を書いていても、
セリーヌがどんなにものすごい絶望を書いても、
あるいは三島由紀夫が徹底的に不毛な世界を書いていても、
字でものを書いている限り、
彼はヒューマニストなんですね。
ここでゆうヒューマニストというのは人間主義者という意味で、
人間を愛してるという意味ではないんです。
人間を憎んだって構わない。
憎むということも愛の一種の変形だ
と学校の先生か牧師さんならすぐ言いくるめてしまいますけれども、
そこまで私は図太くないんで、
そうゆうこと出来ませんけれども、
愛そうが、
憎もうが、
絶望しようが、
何しようが、
字を書いている限り、
あるいは字を書こう、
何かを書こうとする衝動がある限り、
彼は人間主義者なんです。

日本語のヒューマニストという言葉は誤ってつかわれすぎてるんで、
ヒューマニストというとすぐに、
心の温かい人かということになりますけれども、
これは間違ってる。
心の冷たい人もヒューマニストになりうるわけです。
ヒューマニストという定義によればね。
人間に関心を持っている人、
持たざるをえない人、
これがヒューマニストなんですね。

この人は不毛の純潔にあこがれることが出来ない。
あこがれてもそれはその人のセンチメンタリズムか夢にすぎない。
ということを悟るべきなんですけども。
とはいっても時々そうゆう流氷のような、
徹底的に素晴しいものを見ると、
体が割かれるような気がするんですけれども。

ですからいかに絶望が語られていても、
それは字で、
文字で綴られている限り、
意味の世界と人間の世界に住んでいるんであって、
絶望という背を裏返して人間にくっつこうとしている。
そうゆう態度なのであって、
悪魔にはなりえない。
全ての作家は悪魔になれない。
悪魔というのは流氷みたいなのをつくり出す奴のことを悪魔というんですね。
私の定義に従えば。

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