『経験・言葉・虚構』(29)

それから徹底的に絵描きはルネッサンス以来人間を裸にして、
女、または女性、または女の人を裸にして描いてきたけれども、
一カ所描いてないところがある。
「日々素晴しく深い恩恵にあずかっていながら、
 女体の一カ所を絶対絵にして描いたことのない部分がある」と私が言うと、
その絵描きは、
「あれだ」と言ってすぐに一言で言い当てましたけれども、
「あれは絵にならんのだ」とこう言うんですね。
皆さんが想像してらっしゃる部分じゃないですよ。
その背景にある部分ですけども。
それを絵にした人はいないんです。
ハンス・ベルメールってゆうのが一人いたということを最近になって発見して、
もうちょっと勉強しなきゃいけないと思わせられましたけども、
これは芸術になってましたね。
長い間あれは見捨てられたままになってたんです。
今後出てくるんじゃないかと私は思うんですけどね。
あれを美しく表現することは出来るはずなんです。
そうゆう話をしてる方がいいんで、
絶対とゆうふうなことを言い出すともうダメなんで、
あるいはダメになってるからそうゆうことを言い出すんだとゆうことになるんで、
これは避けた方がいいわけですね。

そうゆうわけで、
音楽の世界、絵の世界は私の専門外とゆうことにしておいて、
まだ絶対音、絶対色の境地というものはあり得るんじゃないか
という夢想の段階にとどめておきますけれども、
小説、こと小説の世界に関する限り、
絶望の文学というものはあり得ない。
前向きになってるか、
後ろ向きになってるかだけの話で、
人間にくっつこうとしている。
人間から離れたいということばっかり書いている小説がありますけれども、
離れたいという衝動で人間にくっついている。
だから彼は人間主義者なんで悪魔になりえない。
全ての作家はものを書いている限り悪魔じゃないんですね。
なれない。
沈黙し始めたら考えなきゃいけませんけれども。
その沈黙が意識して、
徹底的に俺はもう人間を見捨てるんだ、
と意識してやってる沈黙か、
ただ書けなくなって才能が枯渇しての沈黙なのか、
にわかに判断しにくいところですけれども、
沈黙以上の悪はないんです。
無関心以上の悪はない。
とゆうふうに私は思うんです。
だけど社会生活の面からみていくと、
無関心と沈黙の領域というものは、
二十世紀になってどんどん広がる一方なんですね。
これをどうしていいのか、
言葉が増えるのをどうしておさえていいのか、
と同じくらいに大問題。

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